1st Blue Plaque.
ヤンゴンダウンタウンの中心に建つ4階建ての建物は、ヨーロッパ建築とミャンマー建築を組み合わせた、所謂"Anglo-Burmese Style"と呼ばれる建築で、1925年着工1940年竣工。
設計はL. A. McClumphaとSithu U Tin、施工会社はClark & Greig(参考:Central Telegraph Office)とA. C. Martin & Company(参考:Central Post Office)による。
2014年8月、Yangon Heritage Trustにより最初のBlue Plaqueに指定された。
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1886年、イギリス植民地当局は同地に建っていたRipon Hallと呼ばれるダンスホールをラングーン市当局事務所として使用するために購入した。
その後、ラングーン市街地の著しい発展に対し、1903年に隣接する北側の土地を購入し施設を拡張したり、道路を挟んで東側にあったRowe & Companyの上階部分を間借りするなどで対応を続けていた。
しかしながら1911年には屋根の崩落が起こるなど、建物の老朽化が進んでおり、加えて老朽化により建物内でネズミが繁殖し、ラングーン市内で2度にわたりペストが流行(1903年/1908年)するなど、新たな市庁舎の建設が望まれるようになっていった。
1913年5月に新市庁舎建設のためのコンペが開催され、L. A. McClumphaの案が採用されることとなる。
しかし1914年に第一次世界大戦が勃発し、この建設計画は一時的に棚上げされてしまう。
結局計画は棚上げされたままとなり、工事が始まるのは1925年を待たねばならなかった。
しかし計画が棚上げされている間に、U Wisaraに代表されるようにビルマにおける初期の独立運動と、ナショナリズムが台頭していき、Nationalist Partyの代表であるU Ba Peが新たに建設される行政施設にはビルマの伝統的な建築であるパガン朝(ビルマ人による最初の王朝)の様式を取り入れるよう要求した。
イギリス側は難色を示したが、最終的には彼の要求が通り、L. A. McClumphaの原案にビルマ人建築家であるSithu U Tinが手を加えて、現在の市庁舎が生まれることとなる。
Sithu U Tinは原案に対して、"Pyatthat"と呼ばれるビルマの伝統的な屋根を、またファサード中央にビルマの象徴ともいえる孔雀と龍を配し、蓮のレリーフを壁面に加えた。
1925年に始まった工事は段階的に進んでいき、まず初めに北側の建設工事が行われた。
この部分に関しての施工をClark & Greigが、それ以外をA. C. Martin & Co.,が担当した。
そして東側が未完成ではあったが1936年には市庁舎としての使用を開始、1940年に東側の工事も終了し、ビルマにおける最初のAnglo-Burmese Styleの建築は完成を見ることとなった。
またこの場所では第二次世界大戦終了後の1946年5月に、日本軍に対する軍事法廷(The Trial of Japanese War Criminals in Burma)も開かれ、主にカラゴン村における虐殺事件(カラゴン事件)に関する裁判が行われたという。
1947年7月13日には「ビルマ独立の父」と呼ばれるAung Sanが生前最後の演説をこの建物のバルコニーから行った。
それ以降はラングーン市域における行政機関として使用されるとともに、1950年代には結婚式やコンサート、卒業式といった式典を行う催事場としても使用され、1970年代には国立図書館も建物内にあったという(現在国立図書館はYankin Townshipへ移転)。
その後は1990年に設立されたYCDC(Yangon City Development Committee)がその前身である"Municipal Corporation of Rangoon"を引き継ぎ使用しており、現在までヤンゴンの行政機関としてその都市計画や行政の中心となっている。
なお、北側入口の門扉には建設当時の"Municipal Corporation of Rangoon"の文字が現在でも確認できる。
ちなみにYangon City Heritage Listの選定はYCDCによって1996年に行われた。当時は189件あったといわれているが、失われた1件が何であったかは不明。
MUNICIPAL CORPORATION OF RANGOON |
参考文献:
Serindia Publications, Inc
Dom Pub
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