23rd Blue Plaque
5層の"Pyatthat"と呼ばれるビルマの伝統的な屋根が、この学校の成り立ちが植民地時代に多数開校したミッションスクールとの違いを物語る。
かつてMyoma National High School(緬:မြို့မကျောင်)と呼ばれたこの学校は1920年の開校。現在の建物は1929年着工、1933年竣工でSithu U Tinによる設計。
2018年11月、Yangon Heritage Trustにより23番目のBlue Plaqueに指定された。
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1920年12月5日にラングーン大学(現ヤンゴン大学)で学生たちによるストライキが発生した。現在まで数度繰り返されているヤンゴン大学での学生運動の最初のものである。
この発端は同年に発布された大学法(University of Rangoon Act)であった。ラングーン大学はビルマ州で最初の総合大学として設立されたもので、もともとラングーンにあった二つの高等教育機関(Rangoon College/Judson College)を統合してできたものである。
ただしこの統合にあたって、植民地政府はその大学運営を自身の手で管理できるシステムを導入した。具体的には大学運営を政府が任命するメンバーで構成する評議会(Council)に、学務は大学の上級職員で構成される参議会(Senate)に任せたのだ。
またカリキュラムも植民地政府下で働く官吏の養成を目的としたものであり、また全寮制の少数エリートを育成するといった部分も、一般のビルマ人への門戸を閉ざすこととなっていた。
こうした事情に反対すべくラングーン大学の生徒たちでビルマで最初の学生運動が発生し、これは徐々に反植民地運動へと変貌していくこととなる。
こうした中で年内に設立されたのがこのMyoma National High Schoolである。
当初は現在の場所ではなくBahan Townshipに仮小屋といった程度の建物が作られただけであったという。
また植民地下の教育制度に反対する形で設立されたこと、ナショナリズムの勃興といった理由からこの学校は国民学校(Amyota Kyaung:အမျိုးသားကျောင်)と呼ばれ、そのカリキュラムはビルマ語、ビルマ史、ビルマ文化といったまさにビルマ人のための教育機関であった。
これ以降、ストライキの2か月前(1920年10月)に設立されたビルマ人団体総評議会(GCBA:General Council of Burmese Association)の経済面・人材面での支援の下、全国にこの「国民学校」が設立されていった。しかしながら経済面での支援には限界があり、財政難のために多くの学校は廃校となってしまった。それでも1941年末時点で36校があったという。
こうして1920年12月に設立されたMyoma National High Schoolは1929年に現在の場所に移転することとなる。
現在の校舎は1929年11月25日にBa Lwinにより礎石が置かれ、1931年12月4日に完成した。両日ともに1920年にストライキを決行した日(ビルマ歴のため毎年異なる)となっており、現在までこの日は「国民の日(National Holiday)」として祝日となっている。
国民学校の名に相応しく正面には5層の"Pyatthat"と呼ばれるビルマの伝統的な建築様式が用いられているおり、設計はCity Hallやヤンゴン中央駅と同じくSithu U Tinによる。
参考文献:
中央公論新社
Dom Pub
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