13th Blue Plaque
現在インド大使館として使用されているこの白亜の建物は、かつて"The Oriental Government Security Life Assurance Company"のラングーン本店として建てられたもので、1914年の竣工。設計者不明。
2016年5月にYangon Heritage Trustにより13番目のBlue Plaqueに指定された。
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The Oriental Government Security Life Assurance Company(以下OLA)は1874年5月にBombay(現Mumbai)でDuncan McLauchlan Slaterを中心としたグループにより設立された。
インドにおける生命保険の歴史は1818年にOriental Life Insurance CompanyがCalcutta(現Kolkata)で設立されたことに始まるが、当時はヨーロッパ人と現地のインド人との間で保険料率に大きな差があったという。
差別的ともいえるこの保険約款だが、保険が「大数の法則」を前提としている点と、その大数の法則のための統計を、当時の植民地住民に対して正確にとれていたかという点を考慮すればある意味では妥当といえるのかもしれない。
なお、ヨーロッパ人と比較して15-20%程度高い保険料が必要であったという。
その保険料の差がなくなるのは1871年にBombay Mutual Life Assurance Societyが設立されるのを待たねばならなかった。同社は初めてヨーロッパ人とインド人の保険料率を同率にした保険会社である。
同社に遅れること4年、1874年に上述のようにOLAが設立され、こちらもヨーロッパ人とインド人との保険料率を同率にし、保険約款にも明確に"to the natives...at the same rate as Europeans"と記載していたという。
その方針が功を奏したのか、OLAは事業を拡大していき1901年にはMadras(現Chennai)に、1910年代前半にはCalcutta及びラングーンへも進出する。
その際にラングーン本店として使用されたのがこの建築物である。
インドに限らず、ラングーンでも生命保険は植民地で生活するヨーロッパ人にとって需要の高いものであった。熱帯特有の病気や、本国と大きく違う気候、更に医療の未発達等、現代の駐在員が抱える問題は100年以上前から変わっていないようである。
1942年3月に日本軍がラングーンを占領する少し前から、ビルマにおけるイギリスの植民地秩序は崩壊しつつあった。
在緬インド人にとって植民地秩序の崩壊は自身の安全にも大きな影響を及ぼすと考えられ、徐々にラングーンを含むビルマからインドへの脱出が進んでいた。
この時期に数万から数十万のインド人がビルマを離れたといわれている。
1945年4月の連合軍によるラングーン奪還、1948年1月のビルマ独立を経て、1957年5月からこの建物はインド大使館として使用されることになる。
正確なことはわからないが、1956年1月にインド政府は国内の全生命保険会社を統合・国有化しLife Insurance Corporation of India(LIC)を設立し、恐らくこの時をもってOLAの歴史は終わりを告げたと考えられる。また時系列を考えると、この国有化によりOLAの所有であったこの建物もインド政府所有に変わり、そしてインド大使館へと転用されることとなったのかもしれない。
1962年のネウィン(Ne Win)によるクーデーター後、個人資産の没収等もあって再びインド人の離緬が続いたが、現在までも多くの土着化したインド系ミャンマー人が多数暮らしており、ヤンゴンに限らず多数のモスクやヒンドゥー寺院、シク教寺院(ヤンゴンに2か所)、ジャイナ教寺院(ミャンマー国内に1か所)が存在する。
1999年の改修を経た建物は、ファサードに設立年である1914の文字と一部がはがれてしまってはいるが、当時の"Oriental Government Security Life Assurance Co. Ltd.,"の文字を現在でも確認することができる。
参考文献:
Dom Pub
Oxford Univ Pr
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