イギリス植民地時代のコロニアルマンションが多く残るBogalayzay Street。
その中でも特にこのH. A. Soorty Mansionと呼ばれる建物は、チリ人の詩人でノーベル文学賞受賞者であるPablo Neruda(本名:Ricardo Eliecer Neftalí Reyes Basoalto 1904-1973)との関係から少しだけ有名な建築となっている。
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H.A. Soorty Mansionは1928-1929年に建てられた4階建ての一般的なコロニアルマンションで、Bogalayzay Streetやその他ヤンゴン市内でよく見られるタイプの建築である。
その名前にある通り、インドのグジャラート州にあるSurat出身者により建てられたものと考えられる。
かつてこのSurat出身のインド人移民たちはラングーンで絶大な存在感を放っていた。
現在でも街を歩けばSurti Sunni Jamah MosqueやRander House(Surat近郊のRander出身者による建設)、29th StreetにあるH. M. Surtee Mansionといったその出自をはっきりとその名称に残した建物を多く見つけることができる。
またそれ以外にもLanmadaw TownshipにあるHashim Cassim Patail Trust MosqueやTheigyi Zay、BEHS No.2 PabedanもかつてSurat出身者により作られたものである。
このようにSurat出身者の繁栄ぶりは現在までヤンゴンの街の各所で見つけることができる。
このH. A. Soorty Mansionsも詳細不明ながらSurat出身のHaroon Soortyにより建てられたと言われている。
ただこの建物が他のイギリス植民地下において建てられたマンションと違う点は、前述の通りノーベル文学賞受賞者であるPablo Nerudaとの関連性に尽きるだろう。
Pabro Nerudaは1904年にチリのParralという町で生まれた。
若くして詩人としての名声を得る一方で1927年に外交官としてラングーンに赴任する。ちなみに彼は自身の赴任地をいくつかの候補の中から選ぶことができたが、ラングーンを選んだのは「今までに聞いたことのない場所だったから」という理由で、更に彼の友人がこの新しい仕事への祝いのために訪れた際には、既にその赴任地の名前を忘れ「アジアのどこか」という認識しか持っていなかったという。
こうして「聞いたことのない」都市であるラングーンへと1927年10月に到着した彼は、その後1年以上にわたってこの場所で過ごすこととなる。
なお、一部ではこの建物に住んでいた、という記述も見られるが実際にはここにH. A. Soorty Mansionsが建つ以前にあった建物を住居として借りていたという。
実際に住んでいた建物は彼がビルマを去ってすぐに取り壊され、そして現在のSoorty Mansionsが建てられと言われている。
彼のラングーンでの仕事は、3ヶ月に一度港に赴きチリ向けの荷物に関する書類にサインをするだけと実質的にほとんどの時間を自由に過ごすことができた。
その駐在中はビルマ人のJosie Blissと呼ばれ恋人もいたが、彼のビルマ滞在は一言でいうならば「地獄のような日々」であったと言われる。
後にチリ共産党に入党するなど、彼の思想的に列強による植民地主義は恐らく許容できるものではなかったのかもしれない。彼はビルマの上流社会と距離を撮り、彼らを「退屈で無知な」人々と蔑み、結果的に異国の地で孤立していった。
1928年の暮れ頃にこの詩人とビルマのかかわりは彼がセイロン(現スリランカ)へと赴任することで終わりを告げた。
そして彼の住まいも取り壊され、新たにSoorty Mansionsが建てられた。
かつてMaha Bandula Road側にはポルチコが存在していたが、これは2011年12月ごろに取り壊されてしまい、建設当時の姿とは少し変わってしまったが、チリの詩人とミャンマーを繋ぐ不思議な縁は現在までひっそりと語り継がれている。
参考文献:
・30 Heritage Buildings Of Yangon: Inside The City That Captured Time
・Pablo Neruda : A Passion for Life
・Relics of Rangoon
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