ダウンタウンの最西部、Wardan Roadにひっそりと建つモスクは1922年に建立された。
Hashim Cassim Patail Trust Mosqueと名付けられたこのモスクは、その名前の通りCassim Patail一族により建立され、現在まで同一族により管理がなされている。
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第一次英緬戦争(the First Anglo-Buemrse War : 1824-1826)の結果、下ビルマのアラカンとテナセリムがイギリスに割譲され、イギリスによるビルマの植民地化が始まった。
これ以降、インドからビルマへの移民が増加していくが、Cassim Patail一族も同様の流れの中でビルマへと移住していった。インドのSurat出身のAhmed Cassim Patailは、1830年代にモールメン(現モーラミャイン)に移住し、そこでシルクや反物の販売業を開始したという。第二次英緬戦争(the Second Anglo-Burmese War : 1852-1853)後、下ビルマ全体がイギリスの植民地となると彼もラングーンへとその拠点を移していく。
Ahmed Cassim Patailには6人の息子がおり、それぞれがラングーンにおいて事業を行っていたが、その中でも3番目のEbrahim Cassim Patailがラングーンにおいて最も成功した人物と言えるだろう。
Ebrahimは1873年にラングーンで生まれ、13歳でビジネスの世界に足を踏み入れる。
父親であるAhmed Cassim Patailはその時期には既にラングーンで一定の基盤を有しており、Sooratee Bara Bazaar(現Theingyi Market)やMerchant Roadに店を構えていたという。Ebrahimはこの店で商売の基本を学び、頭角を現していく。
なお、彼らは法人として"Hashim Cassim Patail"という商号を使用しており、これはAhmed Cassim Patailの長男の名前であり、現存するモスクの名前もこの商号からとられている。
Ebrahimはその後自身のビジネスとしてHashim Cassim Patailを経営する傍ら、同じくムスリム系のMoosa Goolam AriffとともにGoolam Ariff Estate Companyを経営したり、Kemmendine Sooratee Bara Bazaar CompanyやBoglay Bazzar Companyの役員を務めたりもした。
またビジネス以外でもBurma Muslim Clubの立ち上げやMohammedan Cricket Clubの運営に関わるなど所謂"Suratee"たちの中でも中心的な存在であったことが伺える。
その他1920年に設立されたラングーン大学(University of Rangoon)の評議員やRangoon Ratepayers Associationの理事を務めるなど1935年に63歳で亡くなるまで、ラングーンにおける有力者として知られた。
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このようにラングーンの有力者であったCassim Patail一族は、1922年に自身の商号を冠したモスクを建立することとなる。建立はAhmed Cassim Patailの4番目の息子であるMohamed Cassim Patail(ないしはEbrahimの息子のMohamed Cassim Patail)によるものと言われているが、その建立経緯に関する記録が残っていないことから詳細は不明である。
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