関門海峡を一望できる和布刈公園内にある世界平和パゴダ(World Peace Pagoda)。
日本で唯一、ミャンマー人僧侶が常駐しミャンマー政府からも公認されたパゴダでヤンゴンにあるKaba Aye Pagoda(1952年建立)を模して造られたという。
このパゴダは1958年、日本とミャンマーの親善と仏教交流及び世界平和、第二次世界大戦時に門司港より出兵していった戦没者たちの慰霊を目的に建立された。総工費約4,000万円。「関門"ノスタルジック"海峡」構成文化財の一つ。
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満州事変以降、200万人もの日本兵が門司港から大陸や南方戦線へと出征していった。
このパゴダ建立発起人である市原瑞麿(故人)もその内の1人で、彼はビルマへと出征したという。その半数が戦死したビルマ戦線を生き残り日本へと帰国した彼は、1954年2月15日に同じ戦地で死亡した戦友たちの慰霊のため「慰霊仏塔としての世界平和パゴダ」建立を発願する。
1954年11月には日緬間で平和条約及び賠償・経済協力協定が調印(翌1955年4月発効)され、二国間の国交が樹立。
こうした背景にも後押しされ、未帰還遺骨収集運動の促進団体として「ビルマ・マンダレー会(初代会長市原瑞麿)」が設立。翌1956年にはビルマ方面未帰還遺骨収集調査団がビルマへ派遣され1,351体の遺骨が日本へと帰国した。
また1954年から1956年にかけてラングーンで開催された第六回結集には日本からも代表団(全日本仏教会)が派遣されるなど、日緬両国間の交流が盛んとなっていった。
1955年12月に市原は当時門司市長であった柳田桃太郎を訪問し仏塔建立の話をしたところ、同市長は門司への建立を希望し協力を約した。そして1956年9月1日に「世界平和パゴダ建立委員会」が設立され、門司市長の柳田が会長、発起人の市原が理事となり本格的にパゴダ建立の動きが始まった。
同年中に建立地の地鎮祭が日本の仏教界の協賛のもと行われ、10月にはビルマの仏教界との間でパゴダ建立のための覚書が調印される。
こうして市原を中心とした帰還兵達、門司市、日本仏教界、ビルマ仏教界の4方面からの支援を受ける形で建立計画は進んでいくこととなる。
1957年4月にはビルマ仏教界から建立地の視察が行われ、6月13日には特使が来日し鋏入式及び戒律堂と僧坊の落慶式、7月にはウ・ケミンダ(U Kemminda)が僧院に到着し、以降当地で逝去するまでこのパゴダに常駐することとなる。
同年9月には東京八芳園においてビルマ首相U Nuの名代よりパゴダ建設資金として3,000万円相当が贈呈された。また建立にあたってビルマよりウ・オンチャン建築技師が来日し、建設に関する協議を行った。
こうして加速度的に進んだこのプロジェクトは1958年9月9日に、パゴダの落慶式が執り行われたことで1つの完成を迎えることとなる。
以上のように各方面からの強力なバックアップのもと完成した世界平和パゴダは、以降、ビルマ戦線復員兵で組織された「パゴダ奉賛会」の支援の下運営がなされていくこととなる(宗教法人世界平和パゴダの設立は1962年)。
パゴダには1957年の来日からその逝去まで常駐したウ・ケミンダの他、常時2~5名のビルマ人僧が常駐しており門司の街での托鉢や日本人への瞑想指導、公演、説法、勉強会などを行っていたという。
しかし時間の経過とともに、設立当初は2,000人近くいた奉賛会会員も鬼籍に入る者が増えていき、徐々にその人数を減らしていく。パゴダの主要な支援団体の縮小は運営資金の枯渇へと直結していく。
加えて2011年12月14日、半世紀近くにわたりこのパゴダに常駐し続けていたウ・ケミンダが89歳で逝去する。長年パゴダを支え続けてきた彼の死と、前述の資金難が重なり、同月に宗教法人世界平和パゴダの理事会が開かれ正式に休館が決定した。
この時点で奉賛会の人数は80人ほどまで減少していたという。
こうして一時的に休館となった世界平和パゴダであるが、翌2012年8月にはミャンマー側の強い意向もあり再開が決定された。当初はミャンマー大使館が、常駐する僧侶の生活費を負担することで再開し、その後地元門司の有志達により「世界平和パゴダ奉賛会」が組織される。
その中心的役割を果たしたのが北九州市で葬祭業を営む株式会社サンレーである。
2012年3月3日、門司にてウ・ケミンダのお別れ会が、世界平和パゴダの理事会主催、ミャンマー大使館後援で開催される。このセレモニー運営を担当したのが株式会社サンレーであった。この縁が元となり、世界平和パゴダ再開に向け、サンレーが動き出した。
同年8月にはサンレーの代表者(会長:佐久間進 社長:佐久間庸和)がミャンマー大使館を訪問し、ミャンマー大使並びに高僧より世界平和パゴダ再開の委嘱状を授与された。
そして同月29日には世界平和パゴダ再開の記者会見が行われ、その日よりミャンマーからの僧2名(U Vimala/U Ksemissara Likeya)が世界平和パゴダに常駐することとなる。
閉鎖から8カ月、世界平和パゴダが新しい時代を迎えた瞬間である。
同日、「日本ミャンマー仏教交流協会」が設立。サンレー会長の佐久間進がその会長に就任した。以降はこの仏教交流会や世界平和パゴダ奉賛会、およびサンレーによって再びパゴダの管理運営が再開される。
以降、2012年7月には第1回パゴダFESTA~ミャンマー祭り~の開催(第2回は未開催)や、安部昭恵総理夫人による講演会(2015年)、ミャンマーから僧を招いての慰霊祭(2013年・2015年・2018年)が行われるなど、積極的な活動が行われている。
なお、2020年時点で宗教法人世界平和パゴダは住職であるウ・ネミンダ(U Neminda:2016年来日)が代表役員を務め、責任役員及び理事には駐日ミャンマー大使及び公使、サンレー会長佐久間進、柳田桃太郎元門司市長の娘である八坂和子といった人々が名を連ねている。
その他にも地元企業である八谷紙工株式会社(田川市)、有限会社花の花将(北九州市)、戸畑港運輸株式会社(北九州市)、社会福祉法人誠光会(北九州市)の代表たちも理事を務めている。
またミャンマービールの日本総代理店である株式会社藤江商会(埼玉県さいたま市)の藤江一登及び藤江ミィが理事として名を連ねている点も興味深い。
以上のように新たに生まれ変わった世界平和パゴダは関門海峡のランドマークとして、そして日緬間の友好の証としてこれからも存在し続けるであろう。
参考:
世界平和パゴダ(公式)
関門"ノスタルジック"海峡 No.14 世界平和パゴダ
株式会社サンレー(公式)
世界平和パゴダを訪問して感じたこと。
対岸の下関から |
門司港レトロから |
門司港出征の碑 |
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