スーレーパゴダから少し北に位置する3階建ての建物は、かつてラングーンにおける氷の供給の担い手であったD. Bern & Companyの本店兼工場であった。
スポンサードリンク
初期のラングーンにおける氷の供給はボストンの"Ice King"として有名なTudor Companyに頼っていた。喜望峰回りでやってくる氷の輸入はコストも高く、ラングーンにおける氷は高価なものであった。
しばらくするとイギリス領インド帝国のカルカッタやボンベイ、マドラスでも製氷工場が作られラングーンもそちらから輸入を開始するが、それでもまだまだ氷の価格は高く、また暑季になると価格が上昇するなど安定した供給には程遠いものであった。
1870年代前半にようやくラングーンに初めて製氷設備が導入され、地場での氷の供給が開始された。
そうした中、フランス生まれのJules Emile DuBern(1857/02/28-1931/02/16:イギリスに帰化)は1893年に製氷とミネラルウォーター及び炭酸水の製造事業のためにD. Bern Companyを設立する。
J. E. DuBernは1857年にフランスのブルターニュ地方で生まれ、カルカッタのJesuit Collegeを卒業したのち、1892年まではマドラスやカルカッタ、セイロンなどで電気技師として働いていた。
J. E. DuBernの弟であるAmedee George DuBernはカルカッタの製氷組合で技術者として働いており、J. E. DuBurnとともに1892年にラングーンへ移住し、Sule Pagoda Roadの南に本社を構え、兄弟2人で上述の通りD. Bern Companyを設立。
1905年には新たに現在の土地を購入し、A. G. DuBernの設計の元、この3階建ての建物を建設。この建物は下層階が製氷工場(50トン/日)兼氷や魚の販売所として、また上層階は冷蔵室となっており製造した氷の保管やその他さまざまなものを冷蔵保管していた。
また製氷事業のほか、ミネラルウォーター及び炭酸水の製造や、1902年にはラングーン北郊外のHmawbiに農場を購入しそこで殺菌牛乳の製造、加えて製氷技術を利用してベンガル湾でトロール網による漁業など幅広く事業展開を行っていた。
J. E. DuBurnは財界のみならずラングーン政界においても重要な位置におり、1899年からRangoon Municipal Committeeのメンバーとなり、1905年にはVice Presidentにも選出されている。
その他Burma Building and Loan AssociationやRangoon Trades Associationの理事を歴任するなど、1931年に亡くなるまでラングーンにおいて影響力を有し続けた。
インヤ湖の北側にあるパラミロード(Parami Road)はかつて彼ら一族の名を冠し、DuBern Roadと呼ばれており、現在American Clubがある場所もDuBern Parkと呼ばれていたという。
事業はその後、A. G. DuBernの息子であるGuy Eric DuBern(1895-c.1970)に引き継がれ、ビルマ独立後も1962年にネウィンによるクーデターで事業が国有化されるまで継続されていた。
この後、恐らくDuBern家はビルマを離れることとなり、現在まで子孫はイギリスやオーストラリア、ニュージーランドに存在しているという。
なおJ. E. DuBurnの孫の一人、Peter Adyはオクスフォード大学で教鞭をとり、別の孫のAylmer Ady(1918-1981)は第二次世界大戦でChinditsと呼ばれるイギリス領インドの特殊部隊に属していたという。
1962年に国有化されて以降のこの建物については不明な点が多いが、一時期は国営保険会社であるMyanma Insuranceの事務所として、そして現在は一般商業施設として使用されており、薬局(A A Pharmacy)やレストラン(Sule Kitchen:2018年閉店)が入居している。
参考文献:
Arnold Wright
White Lotus Co Ltd
0 件のコメント:
コメントを投稿