発展著しいヤンゴンの中心地で、ここほど静寂を味わえる場所はないだろう。
2,500年以上前に建立されたと言われ、イギリス植民地時代はラングーン港に出入港する船舶に対する信号所としての役割も果たした。
往時よりも視界は遮られてしまってはいるが、それでも100年前と変わらず港を望むことができる。
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伝承によればこのパゴダはミャンマー最大の聖地として有名なShwedagon Pagodaよりも古く、2500年以上前に建立されたといわれる。
仏陀(Goutama Buddha)へ初めて帰依した在家信者と言われているタプッサとバッリカ(Tapussa / Bhallika)の兄弟は、インドで仏陀と出会い、その髪の毛を8本もらい受けビルマへと戻っていった。
ヤンゴンへと戻ったこの兄弟を、時の王であるオッカラパ王(King Okkalapa)は民衆とともに、現在シュエダゴンパゴダの建つシングッタラの丘(Singuttara Hill)近くで出迎えたという。そしてその場所を、「仏陀の聖髪を迎えた場所」という意味でSandaw(聖髪)kyo(迎える・歓迎する) Hillと名付け、パゴダを建立した。
これが現在までAlan Pya Pagoda(Signal Pagoda)として知られる、Sandawkyo Pagoda(ဆံတော်ကြိုဘုရား)の始まりである。
1824年に勃発した第一次英緬戦争(the First Anglo-Burmese War : 1824-1826)ではイギリス軍のBrigadier McCreaghがこのパゴダの建つ丘を野営地としたことからMcCreagh's Pagodaと、また同様にRobert Henry Saleが駐留したことからSale's Pagodaと呼ばれることとなる。また第二次英緬戦争(the Second Anglo-Burmese War : 1856)の結果、下ビルマがイギリスに割譲され、ラングーンがイギリス領インド帝国ビルマ州(ビルマ準州)の州都となると、港湾都市として発展していくラングーンにおいて、小高い丘の上にあるという立地から船舶への信号所として使用されることとなる。
1855年に撮影されたこのパゴダの頂部には丸い物体が写っており、これは恐らく報時球ではないかと考えられる。
こうしてその役割から現在まで最も一般的な名称として知られるSignal Pagodaと呼ばれることとなる。なお、ミャンマー語でも同様にAlan(旗)Pya(見せる)Pagodaと呼ばれた。
またその後の第一次世界大戦(the World War I : 1914-1918)以降は、この駐留地にネパール出身のグルカ兵が多くいたことからGurkha Pagodaとも呼ばれたという。
1942年に日本軍がビルマへ進駐すると、このパゴダを含む野営地は放棄され廃墟となっていたが、戦後の1945年には元ラングーン市長であったU Thin Maungにより改修工事が行われた。
その後1948年にビルマがイギリスから独立すると、このパゴダ周辺は国防省の敷地となり、1952年以降壁が建設され、一般の立ち入りが不可能となる。
こうして長年、このパゴダは一般の民衆からは閉ざされたものとなり、国防省に勤務する人々やその家族たちがひっそりと管理を続けていた。
こうして半世紀近い時を経て再び一般への開放が始まり、現在はShwedagon Pagoda Road側の入り口から入ることができるようになった。
しかしながら入り口にセキュリティがいる点や長年一般の立ち入りが禁止されていた点から、現在でも訪問者は数えるほどしかいない。
参考文献:
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