鐘楼を思わせる塔が印象的な建物は、ミャンマーの港湾局として現在まで100年以上にわたって使用されている建物。
設計はThomas Oliphant Foster(1881-1942)とBasil Ward(1902-1976)で同じくPansodan RoadにあるMyanma Agricultural Development Bankと同様。
また、Strand Road沿いにあるYangon Division Office Complexも彼による設計。
1926年着工、1928年竣工の鉄筋コンクリート造り。施工会社はClark & Greig。
壁面には船や錨といった海に関するレリーフが飾られている。
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第二次英緬戦争(Second Anglo-Burmese War:1852-1853)の結果、下ビルマを併合したイギリス帝国はChief Navigation Officerを設置し、港湾管理を始めた。
1869年に「東と西の結婚」といわれるスエズ運河が開通、また蒸気船の登場により国際貿易量は大幅に増加していった。
ビルマもその例にもれず、1873年から1877年の5年間で貿易額は20%以上の増加を見せた。またヤンゴン港に入港する船舶も1870年から1880年の10年間で689隻から874隻へ、取扱貨物量ベースでいえば313,998トンから598,303トンと2倍近くに膨れ上がった。
こういった事情から港湾管理に関して早急な改善が求められることとなる。
1876年にStrand Bank Committeeが港湾管理を引き継いだが、この劇的な環境の変化に対応する規制がなかったことから主に水先人からの不満が噴出し、その結果として1889年にthe Port Commissioners Actが発布され、翌1890年6月にThe Commissioner of Port of Rangoonが設立され、港湾管理を行っていくこととなる。
その後もラングーン港の発展は続いていき、20世紀に入るころにはイギリス帝国内でも3番目の規模を誇るほどになっていたという。
港の発展とともに1865年に同じ場所に建てられた建物では対応が難しくなり、1925年に同建物を取り壊し、1926年3月17日、初代ビルマ総督であるSpencer Harcourt Butlerにより礎石が置かれ、近代的な設備を有する新たな港湾局の建設が始まる。
その後は日本軍による侵攻で爆撃を受けたりもしたが、幸いなことに破壊を免れる。
独立後の1954年、The Commissioner of Port of Rangoonを引き継ぐ形でthe Board of Management for the Port of Rangoonが組織され、1972年3月16日にBurma Port Corporationへ改組。
更に1989年3月31日に国名変更とともにMyanma Port Authorityに改組された。
現在でもその役割を変えることなく、ヤンゴンのみならずミャンマー全土の港湾運営の中心となっている。
参考文献:
Serindia Publications, Inc
Dom Pub
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