その他のコロニアル建築群と比べると幾分シンプルだが、その分現代的な3階建ての建物は、巨大な石材でできた柱廊式玄関が特徴的。1926年竣工。設計者不明。
もともとはBalthazar & Sonの本店として建てられた。
近年までアメリカ大使館として使用されており、比較的管理が行き届いている。
Blathazar & Sonはペルシャ(Persia、現Iran)のエスファハーン(Esfahan)生まれのアルメニア人であるB. C. H. Balthazarが1853年にボンベイ(Bombay、現Mumbai)で事業を起こしたのが始まり。
ボンベイでの事業が好調のため1年後にはカルカッタ(Calcutta、現Kolkata)へ進出し、1856年にBalthazar & Sonとして法人を設立。その後ラングーンへも事業を拡大していく。
ビルマ経済の発展とともにラングーンでの事業は順調に拡大していき、1866年にはボンベイ事業を任せていた長男のCarapiet Balthazarとエスファハンにいた次男のSamuel Balthazarをラングーンに呼びよせる。
ラングーン進出後も、輸出入商品の小売や不動産、競売人として順調に事業を拡大していく。また兄のCarapietは宝石商としての一面もあり、時のコンバウン朝最後の王、ティーボー(Konbaung Dynasty King Thibaw : 1878-1885)に宝石を販売していた。
1896年にはFytch Square(現Maha Bandula Park)の中央、現在独立記念碑が建つ場所にヴィクトリア女王の彫像(Francis John Williamson作)も寄贈している。なおこの像は日本軍のラングーン占領とともに撤去されている。
1873年に創業者のB. C. H. Balthazarは引退しペルシャに戻り、2年後の1875年に死亡する。彼の引退後はCarapietとSamuelの兄弟で事業を引き継ぎ1901年2月に兄のCarapietが63歳で死亡するまで共同で経営を行っていた。
Carapietの死後、事業は弟のSamuelとCarapietの次男であるBalthazar Carapiet Balthazar、Carapietの三女であるElizabeth Balthazarの夫、Minas John Joakimにより運営されていくことになる。
1905年にBank Streetに赤レンガ造りの通称"Blathazar Building"を本店として建設、また1920年代には現在のBelmond Governor's Residenceを住居として建てたり、1926年には"Balthazar Building"の北側に隣接する土地を購入し本物件を建てるなど栄華を極めた。
なお、明治屋の当時副社長で、麒麟麦酒株式会社の設立発起人の一人(のち、社長・会長を歴任)である磯野長蔵氏が1916年からアジアのビール市場調査の際に、ラングーンに立ち寄りBalthazar & Sonとの取引を決めたという記録も残っている。
しかしながら1926年にこの建物を建ててからの消息については語られておらず、1929年に始まった大恐慌の影響を受け事業継続が困難になっていったのかもしれない。
なお、Balthazar Carapiet Balthazarは1922年にロンドンで死去している。
1912年にアメリカ人のHelen Kendrick Mosherと結婚しているが二人の間に子供はなく、その後事業を誰が引き継いだかは不明。
時は流れ、1948年1月4日にビルマがイギリスから独立を果たすと、この建物はアメリカ大使館として使用されることになる。
その後、1988年8月8日のデモに象徴される「8888民主化運動」により長期独裁政権を敷いていたネウィン(Ne Win)が退陣したが、結果的に軍事クーデターにより国軍が政権を掌握することになる。
これ以降、アメリカはミャンマーに対する経済制裁を実施するなど、両国間の関係は冷却化していった。
両国関係を象徴するように、当時のBurton Levin大使が1990年9月30日に任期を終えてからは、2012年7月5日にDerek Mitchellが大使に就任するまでの22年間、大使不在で代理公使(Chargés d'affaires)が置かれていた。
2007年にセキュリティ上の観点からアメリカ大使館は現在のインヤ湖南側に移りこの建物は大使館としての役割を終えた。新大使館の建設費用は6,000万USD。
*現在のアメリカ大使館
参考文献:
Dom Pub
Univ of Hawaii Pr
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