赤レンガと中央に立つ白亜の塔が目を惹く、1915年完成のJohn Begg(1866-1937)による建築物。
なお、John Beggによる建築はこの他、Printing & Publishing EnterpriseとTelegraph Officeがある。
ミャンマー税関の歴史は1755年まで遡る。
コンバウン朝の創始者、アラウンパヤー王(Konbaung Dynasty : King Alaungpaya)が1755年にDagon(ダゴン : 現在のヤンゴン)を征服し、かつて小さな漁村でしかなかった町は、ヤンゴンと改称されミャンマーの歴史の中心となっていく。
アラウンパヤー王はアルメニア人のGregory Avasを税関長とし、現在City Hallが建つ近くに2階建ての税関を作り、ここにミャンマー税関の歴史が始まることとなる。なお、当時は税関事務所としてだけでなく、倉庫としても使われていた。
その後、アラウンパヤーの孫であるシングー王(King Singu : 1776-1781)の時代に税関は現在のLatha Roadに移る。
第一次英緬戦争(First Anglo-Burmese War : 1824-1826)の結果、一時的(1826/12/9まで)にヤンゴンはイギリスにより占領され税関長もイギリス人のCaptain I. Nicholが任命された。
タラワディ王(King Tharrawaddy : 1837-1846)の時代にはLatha RoadからLanmadaw Roadに再び税関は移り、第二次英緬戦争(Second Anglo-Burmese War : 1852-1853)の終結後、ヤンゴンを含む下ビルマはイギリスの植民地となり名称もラングーンへ変更となった。イギリスによる植民地化とともにラングーン港は改修され、国際的な港へと発展していく。
1852年12月、Arthur Purves Phayre(後の初代ビルマ長官)は税関に関する規則をカルカッタ税関と同様のものとして運用する命令をだし、翌1853年2月1日より施行された。
それに合わせてLanmmadawにあった税関も現在のStrand Roadに移動することになる。1868年には増加する積荷に対応するべく同じ場所に新しく木造2階建てのものを建て直す。
1885年の第三次英緬戦争(Third Anglo-Burmese War : 1885)を経て、ビルマは完全にイギリスの植民地となりインド帝国ビルマ州となる。全土がイギリス植民地となったことから、ラングーンの人口及び商業活動の増加は著しく、20世紀初頭には「東の庭園都市」と呼ばれるまでになり、公共サービス・社会インフラでロンドンと肩を並べるまでになっていたという。
建物の老朽化も激しく、増え続ける積荷の対応にも迫られたことから1912年に新しい税関の建設が始まった。1915年の終わりに完成した新しい4階建ての建物の上階は、24時間体制で働いていた一部の税関職員のために彼らの住居としても利用されていた。
1942年から1945年の日本による占領時代は一時的に閉鎖され、日本軍の病院として使用されていたが、独立後、再び税関としての役割を再開し現在もミャンマーにおける貿易の窓口となっている。
なお、ミャンマーでは2016年11月12日より通称マックス(MACCS : Myanmar Automated Cargo Clearance System)と呼ばれる電子通関システムの運用が開始された。これは日本の電子通関システムであるナックス(NACCS : Nippon Automated Cargo And Port Consolidated System)をベースに開発されたもので、システム開発はNTTデータによる。
参考文献:
Serindia Publications, Inc
Dom Pub
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