甲府仏舎利塔(仏舎利ハンター日誌 Vol.13)


甲府駅の北、愛宕山の山頂に白亜の仏舎利塔が建つ。
1972年(昭和47年)に完成したこの仏舎利塔は、インドから贈られた仏舎利が一粒奉祀されており、設計は国内外で多数の仏舎利塔を手掛けた大岡實による。


この仏舎利塔の建立計画は、1957年(昭和32年)6月、日本山妙法寺山主の藤井日達上人により始められた。この時点では同年9月に着工、3カ年計画で1960年春ごろの落慶を目指していた。
これに先立つ1954年(昭和29年)4月8日に、熊本市の花岡山に日本山妙法寺による国内初の仏舎利塔が落慶しており、愛宕山の建立計画はこの花岡山に続く第二塔として、県内に日蓮宗総本山・身延山久遠寺を有する山梨県が選ばれたものであるという。



1957年6月22日、日本山妙法寺の阿蘇行憲師、常設寺の梶山智孝尼、甲府市にある富士洋行社長の深沢博一の3名が山梨県庁を訪問し、愛宕山山頂にある県有地1,500坪の賃借を申し入れた。既に民有地1,700坪は契約済みであり、あわせて3,000坪の敷地に直径20間(約36m)、高さ15間(約27m)の石造り丸型ドーム式パゴダを建立する計画であったという。当時の報道によれば県としても全面的に協力する方針を示し、天野久県知事も賛意を表明した。

8月5日、「甲府の迎賓館」とも呼ばれる湯村町の常磐ホテルにて、仏舎利塔建設懇談会とレセプションが開催された。これには日本山妙法寺の藤井上人に加え、インド上院議員のカカ・カレルカール(Kaka Kalelkar)、ビルマ(現ミャンマー)からビルマ仏教会のウ・ツナンダ比丘らが出席、県側からは天野知事に加え、野口二郎県観連会長(山梨放送社長・元甲府市長)らが集まったという。

翌8月6日、建立予定地である愛宕山山頂にて仏舎利塔の定礎式が執り行われた。午前10時、甲府駅前からうちわ太鼓を鳴らした信徒一同が市内目抜き通りを練り歩いたのち、愛宕山に登り、定礎式とあわせて日本山妙法寺甲府道場の開堂式も行われた。
式典には先日の懇談会に参加した藤井上人、カカ・カレルカール、ウ・ツナンダ比丘に加えて、FOR(Fellowship of Reconciliation)のグラディス・オーウェン(Gladys Owen)、奉賛会からは海沼栄祐山梨県商工会議所(現・甲府商工会議所)会頭、内藤県議らが参列し、一般参列者は約500名にのぼったという。

この計画は、先述の深沢博一と日本山妙法寺の佐藤久仁師を中心に進められた。佐藤師は太平洋戦争時、タイ・ビルマ国境の泰緬鉄道建設現場にて軍属の通訳として派遣され、のちに召集されインドシナでの戦線にも従軍した経歴を持つ。そして戦後11年目の1957年に出家したという。

こうして始まった仏舎利塔の建立計画であったが、残念ながら計画にあった3年後はもとより、5年経っても工事はほとんど進行していなかった。
1962年(昭和37年)、立ち消えになりつつあった計画を再び動かすため、藤井上人が山梨放送の野口二郎や甲府市長の鷹野啓次郎に再度の協力を要請し、建立計画の具体化に向けて動き出す。
また同年、ボクシングの元東洋バンダム級チャンピオン米倉健治もこの仏舎利塔建立計画に協力するという話も浮上した。これは米倉の義父が、当時御殿場市に建設中であった仏舎利塔の発願人である堀内定好(株式会社三徳社長)であった縁による。

とはいえその後も計画の進捗は遅く、1970年(昭和45年)7月19日にようやく起工式が行われることとなる。約2,000人の参列者を数えたこの式典では、式に先立って建立された高さ3.5mほどの大谷石造の小宝塔に仏舎利が奉祀された。
そしてさらに2年後の1972年8月27日、愛宕山山頂に、ついに白亜の仏舎利塔が湧現した。
完成した仏舎利塔は鉄筋コンクリート造で、高さ21.5m、基壇直径30m。平頭(ドームと相輪の間)にインドから贈られた仏舎利が奉祀されたという。
また仏舎利塔の正面には合掌坐像の釈迦石仏が安置されている。背面にも仏龕があるが、こちらは現在まで仏像が安置されることなく、空位となっている。なお、仏舎利塔の設計は大岡實によるもの。

*参考(大岡實設計の仏舎利塔)


落慶式典は藤井上人を導師として執り行われ、来賓として駐日ネパール大使のプラカシュ・チャンド・タクール(Prakash Chand Thakur)、インド上院議員のカカ・カレルカール、河口親賀甲府市長らが臨席、参列者は約500名を数えたという。また仏舎利塔には仏舎利の他、県内外の人たちによる「写経石」約1,200袋も納められた。
計画の始動から約20年が経過しており、当時の建立奉賛会役員で計画の中心であった深沢博一や、天野久元県知事は既に故人となった。奉賛会自体も実質的に消滅したような状況になっていたが、そうした中にあっても佐藤師による募金活動や建立への熱意により、ついに落慶を迎えることとなった。

建立後は佐藤師により維持・管理され、1997年(平成9年)からは「山梨県外国人人権ネットワーク・オアシス」という団体がソンクラーン(タイの旧正月)の会場として使用するなど、市民にも親しまれる存在となっていた。
ただしソンクラーンも2004年(平成16年)を最後に仏舎利塔では開催されることもなくなり、2010年代に入ると、長年仏舎利塔を護持していた佐藤師も、高齢を理由に山を下り、現在では遷化されているという。
それ以降は適切な管理もされていないような状況であったが、2022年(令和4年)5月には落慶50周年式典が開催、それにあわせて外壁の塗り直しも行われた。
現在も日本山妙法寺甲府道場は無住となっているようだが、仏舎利塔は少数ながら信者たちによって管理が続けられているようである。


参考文献:
山梨日日新聞
1957/06/23・1957/08/04・1957/08/07・1962/08/25・1962/10/12
1962/12/09・1970/07/20・1972/04/20・1972/08/28
オアシスニュース No.10(1996年10月号)、No.12/13(1998年3月号)










背面



日本山妙法寺甲府道場


甲府佛舎利塔
Address : 山梨県甲府市元紺屋町

2020/09・2025/04撮影



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