金沢市街を一望できる奥卯辰山に建つ仏舎利塔。
国内に多数ある仏舎利塔の中でもその特徴的な形状は一際目を引く。1974年(昭和49年)に完成したこの仏舎利塔は多くの仏舎利塔設計を手掛けた大岡實による作品で、同型の仏舎利塔は大分県臼杵市の臼杵仏舎利塔のみである(ただし臼杵仏舎利塔は仏龕が四方にある点が異なる)。
スポンサードリンク
1954年(昭和29年)5月4日午前11時8分、インドの初代首相ネルー(Jawaharlal Nehru)より贈られた1粒の仏舎利がインド大菩薩会書記長デバプリヤ・ヴァリシンハ(Devapriya Valisinha)、セイロン(現スリランカ)の仏教徒ダルメスワール(M. Dharmeshwar)並びにサラナンカラ、そして日本山妙法寺山主藤井日達ら11名により護持され、金沢駅へと到着した。
翌5日、金沢東別院本堂にて仏舎利奉迎奉賛会長の柴野和喜夫石川県知事の代理として禿諦住(かむろたいじゅう)輪番に仏舎利が授受され、約2,000名の参列者とともに盛大な法要が執り行われた。
所謂「ネルーの10粒」の1粒が奉祀され、佛都金沢に仏舎利塔が建立されるはずであった。
しかし仏舎利塔の建立計画は難航する。
盛大な法要とともに贈られた仏舎利であったが、その後しばらくの間は塔建立の動きはなく、「宙に浮いた仏舎利」と言われる始末であったという。1957年(昭和32年)4月になってようやく元国務大臣で石川県商工会議所会頭などを歴任した林屋亀次郎(1886/06/01-1980/05/04)を会長とする建立奉賛会が発足した。しかしそれ以降も具体的な動きはないまま時は過ぎる。
奉賛会の発足から4年が経過した1961年(昭和36年)6月20日に石川県仏舎利塔奉賛会が総会を開き、翌1962年(昭和37年)5月ごろをめどに東別院境内に予算1,850万円で仏舎利塔を建立、引き続いて仏教センターを建てる方針を決定した。しかしながら今回もその後の具体的な動きは見られず、「宙に浮いた仏舎利」は金沢東別院にて塔建立の日を待ち続けることとなる。
仏舎利塔建立計画が遅々として進まなかった理由として1957年4月9日付北國新聞には「工費はパゴダ建築で推定二億円かゝるという巨額の為」、また「仏舎利の世話と責任をネール首相から授かったのが日本山妙法寺で真宗王国の石川県では宗教界の有力者が乗り気でなかったため」との記載がある(*日本山妙法寺は法華宗系)。
時は流れ1972年(昭和47年)になり、長らく忘れ去られていた仏舎利塔建立計画が再び動き出した。
12月16日、金沢商工会議所において金沢仏舎利塔奉賛会が発足、会長に金沢市で金沢ヘルスセンターを運営していた株式会社松本興業の松本由(まつもとよし)、副会長には県宗教連盟理事長の皨昇羑(ほしのぼりすすむ)、金沢商工会議所副会長で福光屋12代目当主の福光博、元金沢市議会副議長で市議の喜多美由喜、県連合長会会長の本岡三郎などが選出された。
また建立地として日本ビルサービス株式会社(現グローブシップ株式会社)の社長であった金沢出身の浅地庄太郎が卯辰山にある私有地約1,000坪を提供することとなった。
計画では総工費7,000万円(付帯工事含む)、高さ24mで基底直径34mの仏舎利塔を2年間で建立するというもので、塔の設計にはすでに国内で多数の仏舎利塔設計の実績を有す大岡實が指名された。
|
完成した仏舎利塔とは大きく異なる(風雲児・松本由 より) |
中心となった松本(個人で500万円、法人として300万円)や福光(200万円)、本岡(200万円)の他に北國銀行、北國新聞、石川県仏教会などからの奉賛金の他、全国各地から浄財を募り建立計画は動き出す。
その他の大口奉賛金提供者として石川県で「産元商社の御三家」と称された西川物産株式会社、岸商事株式会社、一村産業株式会社などが名を連ね、財界・宗教界からの強力な支援を得ての計画推進となった。
このように石川県下有力者の協力を取り付けた背景としては、会長である松本の影響力が大きかっただろう。松本は1960年(昭和35年)の北陸三県高額所得者で9位(1位は熊谷組の熊谷太三郎)となるなど、北陸三県高額所得者ランキングの常連であり、他にも石川県山岳協会会長や石川県ライフル射撃協会会長、卯辰山自然公園観光協会会長などを歴任、県内に大きな影響力をもつ存在であった。
その松本が奉賛会会長就任から完成までの2年間、「私を無にして」仏舎利塔建立に奔走したことがこのような強力な支援、そして地鎮祭からわずか1年という短期間で仏舎利塔の完成を見ることとなった大きな要因であるだろう。
こうして翌1973年(昭和48年)11月29日にティルヴェンガダ・タン(S. Thiruvengada Than)駐日インド大使夫妻、アーサー・バスナヤケ(Arthur Basnayake)スリランカ大使、杉山栄太郎副知事、岡良一金沢市長(在任:1972/08/06-1978/11/23)など臨席の下、ついに地鎮祭が開催され、その1年後の1974年(昭和49年)11月28日に落慶式典が開催される運びとなった。
午前11時から行われた落慶式典には地鎮祭から引き続いて駐日インド大使のティルヴェンガダ夫妻、スリランカ駐日代理大使のC.D. カーシー・チェッティー夫妻も臨席し、県仏教界から約200名の僧が参加。その他関係者、一般市民らあわせて1,000名ほどが参列する大きな式典となった。日本山妙法寺の藤井日達に加え、皨昇ら県仏教界僧侶らによる法華経、阿弥陀経の唱和が行われ両大使によって塔中央の仏像除幕も行われた。
完成した仏舎利塔は高さ30m、基部直径27mほどで正面に転法輪印を結んだ釈尊像が安置された。なおこの仏舎利塔は全国で40番目のものであったという。
こうして他の仏舎利塔同様に難産であったものの、ついに佛都金沢にも仏舎利塔が完成した。
現在仏舎利塔は隣地にある日本山妙法寺金沢道場の泉行眞上人により管理されている。2022年(令和4年)9月には仏舎利建立48周年平和祈念法要に合わせて初めて仏像の金箔張替えが行われた。
なお、石川県にはこの金沢仏舎利塔の他、鶴来町(現白山市)の白山山頂にも仏舎利塔が存在する(1960年建立)。
参考文献:
松本由:風雲児・松本由 夢・冒険・苦闘・小さな巨人
北国年鑑昭和30年版
北国年鑑昭和33年版
北国年鑑昭和37年版
北國新聞 1957/4/9・1972/12/17・1973/11/30・1974/9/29・2022/09/26・2024/02/04
北陸中日新聞 1973/11/29
|
日本山妙法寺金沢道場 |
金沢仏舎利塔
Address : 石川県金沢市若松町ア51-1
2021/5撮影
スポンサードリンク
0 件のコメント:
コメントを投稿