熊本市の中心部に位置する標高132mほどの花岡山。
桜の名所、熊本で一番美しいと言われる夜景スポットとしても有名なこの花岡山の頂上には日本山妙法寺が日本で最初に建立した記念すべき仏舎利塔が存在する。
初代の仏舎利塔は1954年(昭和29年)4月8日に完成、落慶法要を行った。
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日本山妙法寺の開祖、藤井日達上人は太平洋戦争の終戦を朝鮮半島で迎えた。
1945年(昭和20年)9月4日に日本へと帰国するとすぐに阿蘇山に入り日本の前途に思いをひそめ、どうすれば宗教家として役目が果たせるかを考えた結果、仏舎利塔の建立を発願する。
仏舎利塔の発願は、日本の歴史を振り返ってその平和な時代を思い返した時、それが聖徳太子以降、奈良平安までであり、その平和を定着された原動力が仏教であったことに思い至ったからである。仏舎利塔はいつの時代でもその平和の原動力たる仏教信仰の中心であったと考えたのだ。
同年中に阿蘇山から花岡山へ移った後、1947年(昭和22年)9月21日に仏舎利塔地鎮祭、1949年(昭和24年)2月15日起工式、1952年(昭和27年)7月7日大東亜戦争における熊本県下戦死者6万1千柱の霊石を奉安する式典を開催した。
1954年(昭和29年)3月25日にはセイロン(現スリランカ)首相のジョン・コタラーワラ(John Lionel Kotelawala)よりコタと呼ばれる塔上部の宝冠が贈呈され、翌月の4月6日仏舎利奉安式、そして4月8日の釈迦誕生の日に落慶法要が執り行われた。この落慶法要には世界各国から35名の代表が参列し一般の参拝者は5万人を数えたという。
なお式典に先立ち、インドのバルデオ・ダス・ビルラ(Baldeo Das Birla)より象が、またビルマからは仏像が贈られたという記録も残っている。
この仏舎利塔に奉安された仏舎利は、藤井上人が1933年(昭和8年)にセイロンのエヌ・ピアラタナ上人から拝受したものと、1948年に同じく日本山妙法寺の丸山行遼上人がインドのジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)首相から拝受した計2粒が、先述のコタの中に納められたという。
なお、この仏舎利塔建立については、その工事の総てを日本山妙法寺の僧侶や信徒、婦人会、遺族会等一般市民の有志による勤労奉仕により行い、建立費用もすべて浄財にて賄ったという。藤井上人も自らつるはしを振るって工事に参加したといわれている。
設計は彫刻家の松原祥雲で藤井日達がセイロンで拝受した仏舎利を入れていた入れ物をデザイン化したものだという。
建立後は熊本の主要観光地として市民にも親しまれてきたが、石造りであったために地盤が緩み仏舎利塔自体が傾いてしまい、危険な状態になっていたという。こうした事情により1970年(昭和35年)から仏舎利塔の再建工事が始まり、1979年(昭和54年)8月19日に宝塔復元の法要が執り行われ、現在の鉄筋コンクリート造りの仏舎利塔が完成した。この復元法要にはアヴタール・シン(Avtar Singh)駐日インド大使、バーナード・ティラカラトナ(Bernard Tilakaratna)駐日スリランカ大使も臨席した。
仏舎利塔には正面と背面に2体の座像が奉安されており、正面は法界定印を、背面は転法輪印を結んだ仏像となっている。また釈迦の生涯に関するレリーフが仏舎利塔を取り囲むように設置されている。
2022年(令和4年)には外壁の塗り直しが行われ、足場の組まれた仏舎利塔の異様な姿が一部で話題となったのは記憶に新しい。
参考文献:
藤井日達:仏教と平和
法華 宗教文化誌 第41巻第2号
市政 第2巻第4号/第3巻第3号
熊本日日新聞(1979/08/20)
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正面 |
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背面 |
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レリーフ |
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藤井日達上人の像 |
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市街地を望む |
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日本山妙法寺花岡山道場 |
花岡山仏舎利塔
Address : 熊本県熊本市西区春日4-45−7
2021/12撮影
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