鬼怒川沿いの砂丘に、パゴダを模した高さ約48m慰霊塔が存在する。
この慰霊塔は第33師団(通称「弓」)歩兵第213連隊としてインパール作戦に従軍した故稲葉茂(2013年1月逝去)により、1989年4月にビルマで戦死した戦友の慰霊のため建立したもので、現地の兵士たちにとって心の拠り所であったという「パゴダ」を模し、そして塔の最上階から見下ろす鬼怒川をイラワヂ河に見立てこの場所が選ばれたといわれている。
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稲葉茂は1943年、21歳の時にインパール作戦要員として水戸東部37部隊に入隊した。この時点で既に兄を戦争(支那事変)で亡くしていたという。同年10月にインドネシアの南方軍陸軍歩兵士官学校を卒業し、上述の「弓」部隊に配属、インパール作戦へと従軍していく。
従軍した兵士のほとんどが戦死した「史上最悪の作戦」において、稲葉は奇跡的に生還を果たしたが、その苦い記憶は彼の死まで消えることはなかったという。終戦後、オランダ軍の捕虜収容所に入り、1946年5月に念願の帰国を果たす。
なお、彼の出身地である石下町(現常総市)からは135名がインパール作戦に派遣され、そのうち帰国を果たしたのは稲葉を含め25名であったという。
帰国後は家業の燃料店(明治22年創業:株式会社稲葉燃料)を継ぎ、戦争によって荒廃した祖国の再建に残りの人生を捧げた。その一方で戦友たちへの供養の気持ちは消えることなく、1977年からは毎年欠かさずビルマへの巡礼を行い(2004年からは3人の息子が名代として訪問)、かつての古戦場7か所に慰霊碑を建立したという。
また戦友たちが恋しがったという味噌汁や日本茶、酒、タバコ、牛肉は戦後も一切口にしていないという。
こうした供養の気持ちを地元石下町に具現化したものがこの鬼怒砂丘慰霊塔である。
1989年5月に建立されたこの慰霊塔は、稲葉が経営する㈱稲葉燃料の本社からもよく見える場所にあり、本社裏手には2基の仏塔も建立されている。
毎年5月には戦没者追悼慰霊祭が執り行われ、駐日ミャンマー大使も臨席する。
また1992年にはミンジャン(မြင်းခြံမြို့နယ်:Myingyan)より仏舎利が贈呈され、同地に奉納された。
慰霊塔最上階に安置された仏像はこの仏舎利が贈られた際に、元ミンジャン市長でかつて日本軍の傭員であったウ・イェ・ド・ニオにより贈られたもの。
残念なことに現在この場所は心霊スポットとして有名となってしまっているが、願主の願いの通りこの地が英霊の安らぎの場となることを願ってやまない。
右に見えるのは水害復興の碑 |
株式会社稲葉燃料 |
本社裏手 |
本社から見た慰霊塔 |
参考
・戦友の供養に捧げた戦後(常陽リビング 2007/08/13)
・堤防工事で戦死者慰霊塔どうなる(朝日新聞 2015/12/13)
・広報いしげ 第387号
・いなばグループ(公式)
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今日、鬼怒川サイクリングロードを走行中、見慣れない建物に気付き、立ち寄りました
返信削除情けない事に、この慰霊塔がある事すら知りませんでした
心霊スポットなどという輩がいますが、断じてそんな軽薄なものではありません
我々が後世に伝えるべき尊いものです