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前回まで3回に亘ったアウンサン将軍の足跡を辿る旅 in 浜松。
アウンサンの滞在とは直接関係ないのですが、彼の足跡を辿る旅の最後を飾るにふさわしい場所があるのでもう少しだけお付き合いください。
さて、ミャンマーから軍関係の要人が来日する際、必ず訪れる場所がある。
1つは先日取り上げた大草山にある「ビルマゆかりの碑」。
そしてもう1つが鈴木敬司大佐(以下鈴木大佐)の墓である。
2020/09/21撮影
鈴木大佐の墓は彼の実家があった地元浜松市恩地町にある。
1986年にはアウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)国家顧問が、2014年9月26日にはミンアウンフライン(Min Aung Hlaing)国軍司令官がそれぞれ訪問しており、2015年から日本財団主催で始まった「日本ミャンマー将官級交流プログラム」でも必ずその日程に鈴木大佐の墓参が組み込まれる。
2019年日本ミャンマー将官級交流プログラム
「四季折々の雑記」より
ところで鈴木家の墓の右後ろに「面田家」の墓があるのがわかるだろうか。
そう、「面田」である。
1940年に来日したアウンサン(Aung San)とラミャイン(Hla Myaing)の2人につけられた偽名が面田紋次と糸田貞一であった。これは「緬甸」を分解して糸+面+田とし糸田/面田、両名を鈴木大佐と繋いだティモン(テインマウンの当時の日本での呼称)を分解しティ=貞、モン=紋として決められたというのは有名な話ではあるが、この「面田」という名字に珍しさを感じた人も多いのではないだろうか。
実際この面田という名字は全国でも680名ほどしかいない、比較的珍しい名字であるといえる。
参考:
なぜこのような珍しい名字を偽名として使用したのか、その理由がこの鈴木家の右後ろにある面田家の墓なのかもしれない。
恩地町で育った鈴木大佐にとって、「面田」という名字は珍しいものではなく、身近なものであったのではないだろうか。実際に鈴木大佐の実家近くには現在でも「面田」の名前を見つけることができる。
ちなみに「糸田」も全国に1,300名程度と、こちらも比較的珍しい名字であるが残念ながら恩地町に糸田家を見つけることはできなかった。
奇しくも訪問日は鈴木大佐の命日の翌日であった。
鈴木大佐に対する評価については賛否あるためここでは触れないが、ビルマの独立に貢献し現在までミャンマーから墓参に来る人がいるという事実はしっかりと記憶していきたい。
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