ビルマ釈迦堂(浄琴山佛照寺)

Address : 茨城県土浦市乙戸748



「ビルマ寺」。
いつしか地元でそう呼ばれるようになった、茨城県の佛照寺境内にはインパール戦没者の慰霊塔が存在する。
ビルマ釈迦堂と名付けられたこの堂は、上部がパゴダを模した形となっており、内部には全国の戦没者の位牌とともにミャンマーから贈られた仏像が安置されている。




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釈迦堂前の案内板によれば、当山2代目住職であった鴨崎仁彦師は1957年(昭和32年)に留学僧としてビルマへと渡った。
そしてその留学から帰国する際、ポント寺のウ・ネミンダ大僧正よりビルマ・インパール戦没において命を落とした18万人ともいわれる日本将兵の御霊を弔うようにと、一体の仏像が託されたという。
なお、1957年に留学僧としてビルマへと渡ったのは鴨崎師の他、京都・壬生寺貫主の松浦俊海師や滋賀・霊山院の小寺文頴師、ビルマ仏教に関する著作で有名な池田正隆等がいる。

帰国した鴨崎師はウ・ネミンダとの約束を果たすべく戦没者供養に取り組むこととなる。
残された名簿を頼りに遺族を訪ねることから始め、このビルマ釈迦堂建立のために東京銀座の街頭や浅草寺等で托鉢を行った。この活動はメディアにも取り上げられ、NHKの情報番組である「スタジオ102」のメインキャスターであった野村泰治との対談の機会を得るなど、広く全国に知られることとなったという。

こうして1967年(昭和42年)、ついにビルマ釈迦堂が落慶を迎え、堂内にはウ・ネミンダより託された仏像が奉安された。
この落慶式には当時の駐日ビルマ大使や門司にある世界平和パゴダのウ・ケミンダ(Kemminda)等、1,000名近い参列者がいたという。
なお、ウ・ケミンダと鴨崎師は彼のビルマ留学時代に親交を結び、そうした縁から佛照寺で毎年10月に行われていたビルマ・インパール戦没者合同大法要にも毎年門司から参列していたという。

この釈迦堂建立の後も、鴨崎師はビルマへと慰霊の旅に幾度も赴き、そうした活動からこの佛照寺も「ビルマ寺」と呼ばれるようになったという。
残念ながらウ・ケミンダは2011年12月に、そして鴨崎師は2020年3月に86歳で逝去し、現在追悼法要は行われていない。


毎度のことながら最後に余談を書き連ねるが、石岡市民なら誰でも知っている「タロー」は1981年8月3日に当山に埋葬されたという。










本堂(昭和53年建立)
2020/08撮影

参考:



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