高さ約20mの仏像が安置されるKoe Htat Gyi Pagodaは1910年にビルマ人篤志家のU Kyinにより建立された。別名Atula Dipati Maha Muni Sakkyaと呼ばれ、イギリス植民地時代の地図には"Glass Pagoda"とも記載されていた。
パゴダの名前にあるKoeはミャンマー語で数字の9を意味し、ヤンゴンにはこのパゴダを含め名前に数字が入ったパゴダが3つ存在する。Bahan TownshipのShwegondaing RoadにあるNga Htat Gyi PagodaとChauk Htat Gyi Pagodaはそれぞれ5と6を意味する。
なおHtatは「階」や「層」といった意味で、一説によればこのパゴダの入り口にある門の伝統的な屋根(Pyatthat)が9層からなっていることに由来するという。
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20世紀初頭のビルマは、全土がイギリスの植民地に組み込まれてから10年以上が経過し、比較的に安定した時期であったと言われている。そうした時代背景からか、この時期にはビルマ人によるパゴダの建立が盛んに行われた。例えば先述したNga Htat Gyi Pagodaは1901年にU Pho Aungにより、Chauk Htat Gyi Pagodaは1907年にSir Po Thaにより建立されたものである。
Koe Htat Gyi Pagodaも同時期のもので、1910年にビルマ人篤志家のU Kyinとその妻のDaw Ngwe Zanの寄付により建立されたものである。
このパゴダの建立は、一人の高僧が見た夢に由来する。
1905年、Bagaya MonasteryのU Arasara Sayadawがある夢を見た。
その夢には蛙を捕まえようとする蛇とその蛇から逃れようとする蛙が出てきた。夢の中で蛇と蛙が現在パゴダの建つ丘に達した時、蛇と蛙の争いは消え両者の間に平和が訪れた。
Arasara Sayadawはこの夢によりこの丘が特別な場所であると確信した。
そしてArasara Sayadawがこの夢をKemmendine(現Kyimyindaing)に住むU Kyinとその妻のDaw Ngwe Zanに話すと、彼らはその夢の丘にパゴダを建立することを発願する。
同時期のある満月の夜、U KyinとDaw Ngwe Zanは耳を劈く程大きな蛙の鳴き声を聞いたという。彼らはその音の出所の蛙を探し当て、その蛙を追いかけていくとこの丘にある蟻塚へと蛙は消えていった。
その蟻塚を掘ると大蛇が出てきたが、U Kyinがお経(Buddha Mantra)を唱えるとその蛇は消えてしまった。更に蟻塚を掘り続けると、中から木製の小箱(カスケット)がでてき、その中には金の延べ棒が詰まっていたという。
Arasara Sayadawの見た夢は現実であったのだ。
U Kyinは1905年8月9日に大仏の建立をはじめ、5年の歳月を費やし1910年に完成させる。
1915年にU Kyinが亡くなるとパゴダは息子のU Kyawとその妻のDaw Hla Gyiにより管理がなされ、彼らの時代に仏像を覆う仏堂も建設された。この仏堂建設にあたっては鉄骨やその他の材料をイギリスから輸入されたという。
また1926年にはパゴダ内の庭園にゴウタマ仏陀(Gautama)が降誕した場所として伝えられるアソーカの樹(ムユウジュ)が植えられた。
その他発電機の導入や大理石でできた仏足石の寄贈、両親の彫像なども彼らの時代に作られた。
1935年にU Kyawが亡くなると、更に息子のU Hla Kyawとその妹たちによりパゴダの管理がなされていった。
彼らはパゴダ内に2つ目の仏足石を造ったり、パゴダの北東に両親と祖父母を記念した祈祷所(現在U Hla Kyaw Shrineと呼ばれている)を建立したりと引き続きパゴダの発展に貢献していった。
1971年10月から、パゴダの管理はBagaya Monasteryが主体となる管理団体へとゆだねられ、現在に至っている。
Nga Htat Gyi PagodaやChauk Htat Gyi Pagodaほどの知名度はないが、メインの仏像の他にもよく整備された庭園や占いのお店、このパゴダの由来ともいえる蛇と蛙の像など、訪れる人の興味を引き付けるものが多数ある。
両側に蛇と蛙 |
1910年代 |
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