岡山市中心部の北に位置する笠井山に、パゴダを模した大仏殿が存在する。
現在は人の手が入った形跡もほとんどなく、荒廃するに任されてはいるが、かつてこの大仏殿にはビルマ大仏(パゴダ大仏)と呼ばれる大仏が安置されていた。
この大仏は、ビルマ戦線で亡くなった岡山県出身者を追悼するため、そしてビルマと岡山の友好親善を願うために建立されたもので、その安置場所として建立されたのがこの大仏殿である。
1952年(昭和27年)11月、神奈川県知事の内山岩太郎は国連協会神奈川県支部本部長の立場でニューヨークの国連本部を訪問、日本の早期国際連合加盟を働きかけた。
その際、安全保障理事会非常任理事国であったフィリピンの対日感情の厳しさを痛感したことから、東南アジア諸国との関係改善を図る運動を開始した。当初、この運動はその経緯からフィリピンのみを対象とし、第二次世界大戦中に破壊されたマニラ大聖堂の復興支援として再建用セメントを贈呈するというものであった。しかしその後この活動は「アジア善隣国民運動」として発展し、1956年(昭和31年)に衆議院外務委員会及び参議院本会議で東南アジア諸国と善隣関係を樹立する決議が行われ、同年8月10日に「アジア善隣国民運動中央本部」が設置、日本商工会議所会頭で後に外務大臣を務める藤山愛一郎が中央本部会長に就任、内山も副会長に就任し、運動は全国的な広がりを見せていった。
中央本部設置の段階で既に構想は存在したが、1957年(昭和32年)にビルマ(現ミャンマー)に仏像を贈呈することが正式に決定された。なお、それ以外の国に対しては、セイロン(現スリランカ)に仏典英訳援助費などを、インドネシアには同国の国家英雄の一人、カルティニ(Raden Adjeng Kartini)の像を、南ベトナムには医療団が派遣されている。
さて、ビルマに対して仏像を贈呈することとなった背景には、1955年(昭和30年)7月に当時のビルマ首相ウ・ヌー(U Nu)が来日した際に、日本各地の仏像を見て興味を持ち、その中でもとりわけ鎌倉の大仏に惹かれたことが理由であると言われている。
余談だが、ミャンマー人にとってに鎌倉大仏は、日本でもっとも有名な観光地として知られている。ただしその理由が本件と関係があるかは不明である。
こうした経緯から、贈られる仏像は原型を鎌倉大仏とし、ブロンズ製で予算1000万円、安置場所はラングーン(現ヤンゴン)のカバエパゴダ(Kaba Aye Pagoda)境内にある聖洞窟(Maha Pasana Guha)とされた。なおこの聖洞窟は1954年(昭和29年)にラングーンで開催された第6回結集の会場でもある。
参考記事:
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| Kaba Aye Pagoda(2019年撮影) |
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| Maha Pasana Guha(2019年撮影) |
1959年(昭和34年)2月、人間国宝で鋳金家の香取正彦に仏像の制作が依頼された。同年4月13日、香取はアジア善隣国民運動本部の高畑双吉事務長、協同制作者の内藤春治東京藝大教授とともにラングーンを訪問し、安置場所の確認をしたうえで実際の大きさなど仏像の詳細に関する打ち合わせを行った。
仏像は鎌倉大仏をそのまま縮小し、光背をつけることが決定し、帰国後ただちに制作に取り掛かった。同年12月上旬に完成すると、12月12日、原型となった鎌倉大仏の前で開眼式が挙行された。
式典にはアジア善隣国民運動の発起人ともいえる内山神奈川県知事やウ・トゥンシェイン(U Tun Shein)駐日ビルマ大使なども臨席し、總持寺18世貫主の孤峰智璨(こほうちさん)が大導師を務めた。
完成した仏像は高さ1m(蓮座・光背を含むと1.85m)、重さ150㎏(同375㎏)で本仕上げには大きな労力がかけられ、製作者の香取は「この仏像のような鋳物の仕上げは今後できないかもしれません」と語ったと伝えられている。
像全体に漆で金箔をはり、肉髻は瑪瑙、白毫は水晶、螺髪は群青を塗り、口びるには紅をさし、光背の華の部分は白金箔おきで、本来の仏像製作法に基づいて制作されたものだという。
また光背背面には「倶に古い仏教国民であるビルマ日本両国民の永遠の友好と親善の象徴としてこの日本の佛像を贈呈する」との銘文が、日本語及びビルマ語で刻まれた。
仏像は開眼式ののち、12月17日の航空便でビルマへと送られた。年が明けて1960年(昭和35年)1月12日、満月の日にこの仏像の贈呈式が執り行われた。この際、贈呈代表団の団長としてビルマを訪問したのが、当時の岡山県知事であった三木行治である。
代表団は、三木の他、吉田実富山県知事(全国知事会代表)、太田淳昭全仏理事長、製作者の香取正彦、善隣運動事務局次長の佐藤嘉四郎の5名で、一行は1月11日の便で羽田空港を出発した。
12日の贈呈式は聖洞窟で行われ、日本側から駐ビルマ大使の原馨(在任:1957-1960)夫妻の他、北郷一等書記官、大使館員も現地から出席。ビルマ側からウ・チャントゥンアウン(U Chan Tun Aung)外相、ウ・チャントン(U Chan Htoon)世界仏教徒連盟会長、ウ・ツウィン(Thado Thiri Thudhamma Sir U Thwin)仏教会会長に加え200名の僧侶、一般参列者約200名と盛大な式典となった。
贈られた仏像は、タイから贈られた仏像と共に聖洞窟の正面に安置されたが、残念ながら現在の所在は確認できていない。
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| Maha Pasana Guha内部(2019年撮影) |
さて、前置きが長くなったが、ここから岡山にある笠井山パゴダとビルマ大仏について見ていきたい。
ビルマから帰国した後、三木は香取に対し、今回ビルマに贈った仏像と同じものを岡山のために制作してほしいと依頼した。これは同型の仏像を作ることで岡山県とビルマの友好親善を願うため、またビルマ戦線で岡山県出身の戦没者が多かったというのが理由である。
1960年4月27日、岡山県とビルマ間の親善を深め、また貿易等の振興を図るべく「岡山日本ビルマ文化協会」が設立された(会長・三木行治)。仏像建立はこの事業の一環として計画され、この時点では建立予定地は岡山市ないしは倉敷市となっていた。
1961年(昭和36年)2月、協会内に仏像建立委員会が設けられ、県内外有志の浄財を集め、1963年(昭和38年)10月8日、笠井山に建立されたパゴダ風の大仏殿で、大仏殿献堂式と大仏開眼供養式が開催された。大仏殿建立費用に関しては岡山経済界の重鎮とも呼ばれた赤沢亀四郎がその多くを負担したという。
安置された大仏はビルマに贈呈したものと同じく香取による制作で、仏像内部には三木がビルマから持ち帰ったシッタン河の砂が奉祀された。また光背背面にはビルマとの親善が深められること、またビルマ戦線戦没者の霊を慰めるきずなとする旨が刻まれている。
式典にはウ・トンシェイン駐日ビルマ大使の他、門司にある世界平和パゴダのウ・ケミンダ(U Kemminda)師、また岡山県遺族連盟から会長の逢沢寛(日本・ミャンマー友好議員連盟会長・逢沢一郎の祖父)が出席するなど、計500名ほどが参列する盛大なものとなった。
またその際、今後の友情・秩序・奉仕の精神に満ちた明るい幸せな郷土を築き、戦没者の追弔、遺族の援護はもとより、広く人間尊重の社会浄化運動を展開するため、笠井山大仏護立会が結成された。
以降は毎月8日に例祭を、4月と10月には大祭を行うなど、大仏殿並びに大仏の護持が行われていた。
時は流れ、笠井山パゴダ並びにビルマ大仏の維持管理を行っていた護立会のメンバーも高齢化を迎え、山中のパゴダへの訪問が年々難しくなっていった。そうした中、岡山県仏教会を通して市内中心にある佛住山蓮昌寺への遷座が決定された。
そして2000年(平成12年)10月8日、大仏建立と同じ日に厳粛な遷座式が挙行された。こうして新たな安住の地を得たビルマ大仏は、現在まで蓮昌寺による維持管理の元、岡山県出身戦没者の冥福を祈り続けている。なお、2024年(令和6年)に境内に安穏堂と呼ばれる納骨堂が完成し、現在は大仏の安置場所もこちらへ移動している。
一方で笠井山パゴダは山中に残され、現在では訪問するものもほとんどいなくなって荒廃するに任されている。
参考文献:
・宗教年鑑 昭和33年版/昭和34年版
・世界の動き1957年3月号 No.61
・仏教大年鑑1961年版
・季刊防災 No.5
・都道府県展望 No.4/No.16/No.17/No.107
・岡山県遺族連盟:遺族40年のあゆみ
・歩兵第百五十四聯隊史編纂委員会:歩兵第百五十四聯隊史:ビルマでの戦斗の実相と体験・回想
・全仏通信第50号
・蓮昌寺史
・山陽新聞 1960/01/11・1960/04/28・1963/10/08
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| 笠井山パゴダ参道 |
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| 蓮昌寺旧大仏殿 |
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| 光背背面 |
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| 50回忌追善碑 |
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| 安穏堂(現在の安置場所) |
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| 郷土部隊忠魂碑(岡山縣護国神社) |
笠井山パゴダ(笠井山大仏殿)
Address : 岡山県岡山市北区畑鮎
佛住山蓮昌寺
Address : 岡山県岡山市北区田町1-4-12
2022/08・2026/03撮影
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