広島駅の北に位置する標高139mほどの二葉山には、ステンレス張りで独特の外観を有する仏舎利塔が存在する。
世界初の原爆被害都市として、人類の幸福と戦争のない世界の恒久平和を祈願し、また原爆犠牲者の冥福を祈るべく建立されたこの仏舎利塔は、1966年(昭和41年)に完成した。
正式名称を二葉山平和塔(本記事では仏舎利塔で統一する)といい、塔内には計5粒の仏舎利が奉安されているという。
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1954年(昭和29年)4月12日、日本山妙法寺山主藤井日達上人を導師として二葉山山頂にて仏舎利塔の地鎮祭が執り行われた。これに先立つ4月7日には、大仏舎利塔建立計画発表が広島農民会館で行われ、その場で発表された計画では総工費3億円、麓から山頂までを直線の石段で結び、塔の高さは40m、2年後の完成を目指すものであったという。
施主代表には中華民国の王文成が就任、地鎮祭の式典にはセイロン(現スリランカ)代表としてP.ヴィバヴィ長老、インド代表としてカリダス・ナーグ博士(Dr. Kalidas Nag)らも臨席。なお、施主代表の王文成は別名王子恵といい、太平洋戦争時に中国にあった日本の傀儡政権である中華民国維新政府の実業部長を務めた人物で、後に尼崎製鋼(現神戸製鋼所)から7億円近い金額をだまし取った疑いで検挙されている。
そして1959年(昭和34年)8月6日、仏舎利塔の定礎式が行われ、これにはインドからネルー首相の代理としてジャガト・ナラヤン・ラール(Jagat Narain Lal)団長らインド仏舎利塔巡拝団11名が参列した。
地鎮祭から定礎式までの間にも5年の空白があり、そして更にこの仏舎利塔の完成は1966年と更に7年間の歳月を要した。しかも当初の壮大な計画とは打って変わり、完成した仏舎利塔は高さ25m、基部直径20mで、山麓からの石段も実現することはなかった。計画の縮小からか、3億円と言われた総工費も結果的には2100万円ほどになったという。
なお、施主代表であった王文成は前述の通り1957年(昭和32年)に詐欺によりつかまっている。詳細については不明ながら、仏舎利塔の定礎式が遅れた理由の一因であったかもしれない。
こうして当初の計画からは大きく遅延、縮小されたとはいえこの仏舎利塔の落慶式典は盛大に執り行われた。
1966年(昭和41年)8月5日、二葉山山頂にて地鎮祭と同じく藤井日達上人が導師を務め落慶式典が執り行われた。日本山妙法寺の僧侶約200名に加え、地元関係者約200名が参列、またテネコーン(Herbert Tennekoon)駐日セイロン大使夫妻、デキシット(Jyotindra Nath Dixit)駐日インド大使らも臨席。
仏舎利塔にはネルー首相から贈られた1粒、セイロンより3粒、他にモンゴル仏教徒から贈られたと伝えられる1粒の計5粒が奉安された。また仏舎利塔正面にはこちらもセイロンより贈られた釈尊像が安置された(仏像の安置は同年5月27日で制作はセイロン民族芸術協会会長のビブラサーラ上人による)。
落慶式典と同時に仏舎利塔は広島市へと寄贈され、以後現在まで広島市により維持・管理が行われている。なお、この贈呈の際に名称を「平和塔」と改称したといわれている。
山頂での式典の後、光町公園で原爆犠牲者二十一周忌法要が行われ、山頂の仏舎利塔前で日本山妙法寺の僧による読経が開始されるのに合わせ、公園から約1500名の提灯行列が山頂へと進んでいき、麓からは花火が打ち上げられ、250名による日本舞踏の奉納も行われるなど、式典の盛大さが伝わるだろう。
余談だが、山頂には平和塔に関する2つの案内板が設置されている。1つは公園管理課により、もう1つは観光政策部により1992年(平成4年)に設置されたものでなぜか前者には仏舎利が3粒、後者には仏舎利が2粒との記述となっている。
これについて広島市に問い合わせを行ったが、なぜ仏舎利の数が変更になったのかについての資料は既に存在しておらず、この内容に関する正誤は不明との回答であった。
なお、完成の翌月9月9日にはスリランカから贈られた釈迦像の首が折られ、地上に投げられて破壊されるという事件も発生している。仏像については同月12日から市内の美術デザイナー青木勲により修復作業が行われ、翌10月には再び復元安置された。
また同年11月の中国新聞では平和塔の寄贈を広島市が受けたことに対し、広島市議会各派代表者会議が「特定宗教団体に便益を与える結果を招き、憲法違反の疑いもある」といった批判も寄せられたという記録もある。
こうして必ずしも歓迎一色ではなかったものの、地鎮祭から数えて12年の歳月を経て、平和都市広島に仏舎利塔が建立された。
さて、こうして長い年月をかけて建立された仏舎利塔がある一方で、広島では実現されず幻に終わったもう一つの仏舎利塔建立計画が存在していた。
二葉山仏舎利塔の地鎮祭が行われることに先立つ1952年(昭和27年)に東京・築地本願寺で開催された第2回世界仏教徒会議において、セイロンより原爆被爆地である広島市に対して仏舎利が贈られ、永久安置することが満場一致で承認された。この仏舎利は世界平和のシンボルとして久遠の光を輝かせるものとして位置づけられた。
同年10月にこの仏舎利が広島市に到着、市内は歓迎ムードに包まれたという。そしてこの仏舎利を奉安する仏舎利塔の建立計画がすぐに立ち上がり、複数の候補地が名乗りを上げ、その中には現在仏舎利塔の建つ二葉山も含まれていたという。
翌11月、早速世界平和広島仏舎利塔建設会が設立され、初代会長に広島市長の浜井信三が就任し、仏舎利塔建立計画が動き出した。
1953年(昭和28年)に高野山で開催された全日本仏教徒会議ではこの広島の仏舎利塔建立を全仏教徒をあげて推進することが決議、更に1954年(昭和29年)12月にビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)で開催された第3回世界仏教徒会議ではこの仏舎利塔建設に向けて世界仏教徒の協力が決議されるなど、広島の仏舎利塔建立は全世界の仏教徒をあげた事業となっていった。
1955年(昭和30年)10月に建立地を広島市内の比治山公園に決定し、ブッダガヤのマハーボーディ寺院(Mahabodhi Temple)を模した地上10階建て(後に地下2階地上7階へ変更)とこちらもまた壮大な計画となった。1956年(昭和31年)4月8日、比治山で仏舎利塔地鎮定礎式が行われ、フォンセカ(Susantha de Fonseka)セイロン駐日大使ら関係者約500名が参列した。施工は奇しくも熊谷組で請負金額は1億6400万円。塔の設計は株式会社石本建築事務所。
世界平和仏舎利塔建設会が発行した定礎式の冊子によれば、この時点で同会の役員として
・西本願寺門主 大谷光照(総裁)
・元大蔵大臣 池田勇人(副総裁)
・元国務大臣 益谷秀次(副総裁)
らがおり、その他顧問として各宗派の代表や代議士、仏教系大学の学長など錚々たる面子が名を連ねるなど、この事業が政界・財界・宗教界からの強力な支持を受けてのものであったことがわかるだろう。
しかしながら二葉山仏舎利塔が建立まで12年の歳月をかけたと同様、こちらの仏舎利塔もその建立計画は難航を極めた。定礎式のあと工事は遅々として進まず、結局工事用の鉄塔が1本と大穴だけが残った状態で1968年(昭和43年)11月に仏舎利塔の建立計画は正式に中止となった。
中止までの間にはセイロン政府(100万円)、ラオス(25万円)、中国仏教会(15万円)が寄付されるなど、各地からの寄付があったにも関わらず、結局のところ予定していた寄付金が集まらなかったことによる資金不足での計画中止となってしまった。
中止に伴いセイロンから贈られた仏舎利は二葉山の平和塔と合祀する案も出されたが、一部の奉安会理事からの反対によりこちらも叶わず、結局1968年12月18日付で外国からの寄付金の残額(140万円)とともに全日本仏教会へと返納された。
ただしこの返納は将来広島市に仏舎利塔を建設した際には改めて寄贈してもらう、という条件付きであり、一部関係者はこの時点でも比治山仏舎利塔の建立を完全には諦めていなかったようである。
1988年(昭和63年)8月12日、この日遂に仏舎利塔の建立は不可能との決断を下し、一時返納されていた仏舎利の、全日仏での永久安置が決定した。1994年(平成6年)3月25日、全日本仏教会の事務総局内に仏壇が新たに造立され、落慶法要を行い、現在まで被爆都市広島ではなく、この地で奉祀されているという。
平和都市広島で計画された2つの仏舎利塔建立計画は、全世界の仏教徒、また広島の政財界からの支援を受けた建立計画が頓挫した一方で、難産であったとはいえ日本山妙法寺による仏舎利塔計画が最終的に完工されることとなり、現在まで広島の平和の象徴の1つとして存在し続けている。
参考文献:
財団法人全日本仏教会編:財団創立四十周年記念 全日本仏教会の歩み(1988-1998)
日本紳士録 第48版
銀行と知能犯罪
石本建築事務所編:石本建築事務所作品集
世界平和広島仏舎利奉安会編:世界平和広島仏舎利奉安会許可申請書
世界平和広島佛舎利塔建立地鎮定礎式
熊谷組社史(1968)
中国新聞 1953/01/22・1954/04/08・04/12・04/13・1956/04/09・1966/08/06・09/10・10/25
二葉山平和塔
Address : 広島県広島市東区光が丘
2021/5・2023/7撮影
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