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さて先日茨城県土浦市にある宝積寺について取り上げました。
上の記事は恐らくこの件に関する唯一の資料である「茶の間の土浦五十年史」の記述をまとめたものですが、賢明な読者諸氏は読みながら若干の違和感を覚えたんじゃないでしょうか。
というわけで野暮だとは思いつつもその違和感について触れていこうかな、と思います。
まずこの「茶の間の土浦五十年史(以下、土浦史)」ですが、これは1965年(昭和40年)の刊行で、そこには文雄の年齢が78と記されており、ここから文雄は1887年または1888年の生まれであることが推測されます。
その他、文雄の時系列に関する記述を抜粋すると
・15の春に家出(当時で考えると数え年か?)
・家を出て横浜へ、日本郵船の見習いコックとして半年間内航船に乗船
・見習いを経て、日本郵船のカルカッタ航路に乗船
・カルカッタ途上のビルマ(ラングーン)で一時寄港、身をくらます
・家を出てから(15の春から)10年間音信不通
・10年後に初めて実家に手紙を送る
・36歳で結婚(同様に数え年か?)
・披露宴のために帰国(1928年3月)
・引揚(1946年秋)
あたりになるでしょうか。
これに文雄の年齢(数え年)を加えると
・01歳 1887年/1888年 誕生
・15歳 1902年/1903年 家を出て横浜へ、半年間の見習い期間
・16歳頃 1903年/1904年頃 カルカッタ航路に乗船しビルマへ
・25歳頃 1912年/1913年頃 家を出てから10年ぶりに実家に連絡
・36歳 1923年/1924年頃 結婚
・40~41歳 1928年 披露宴の為帰国
・54~55歳 1946年秋 引揚
となります。
さてまず最初に気になるのはカルカッタ航路の件です。日本郵船のカルカッタ航路開設は1911年なので時代的に矛盾が発生します。なお、日本郵船は1893年にボンベイ航路を開設しております。
また1912年/1913年に実家に連絡した時、次兄が嫁探しをしましたが結婚まで更に10年近くかかってるのに違和感を覚えます。そんなに嫁さん見つからなかったの?
そして何より一番気になるのは1903年(1904年)にラングーンへと上陸した点でしょう。
土浦史によれば彼が上陸した時既にラングーンの目抜き通りに日本神農院があったそうです。また日本神農院の加藤院長は開業から5年後に帰国、その際友人の野村に経営を譲るも野村もその3年半後に帰国しております。
開業自体がいつであったか明記されていませんが、単純化するために文雄がラングーンに上陸したころに開業したと仮定しましょう。すると1902年/1903年に日本神農院開業、1907年/1908年加藤帰国、経営は野村へ、1910-1912年、野村帰国、経営は文雄へ、となります。
以上を踏まえて別の資料から当時のラングーンを眺めてみましょう。
まず戦前のラングーンで商業的な成功を収めた在留日本人の一人である山田秀蔵の「ビルマ読本(1942年)」と「ビルマの生活(1944年)」を見てみましょう。
そこには山田が初めてラングーンを訪れた時(1904年)に、日本人は山田の他2名(2名とも雑貨商)しかいなかったと記されています。また1912年に日本郵船がラングーン航路を開設した時の日本人たちの喜びようも書かれています。
というわけで何が言いたいの?というところですが、文雄のラングーン上陸は土浦史の通り、カルカッタ航路で正しい、ただしもちろん開設後の1912年以降ではないか、ということです。
もちろん山田の記述が全面的に正しいというわけではないと思いますが、少なくともラングーンの目抜き通りに日本語の看板を掲げた醫院があれば目につくでしょう。
では続いて文雄の勤務先である「日本神農院」について調べていきましょう。
残念ながら当時の文書の中で同病院に関する記述を見つけることはできませんでした。ただ外務省が発行している「在外本邦実業者調」の1927年(昭和元年)版と1929年(昭和3年)版に「日本神農薬房」の名前を見つけることができました。
しかしこの日本神農薬房は「真珠採取・売薬・写真」を生業とし、所在地もマグイ(現メルギー)で、営業主・支配人・主任の項目は湯澤良助となっております。なお事業開始は真珠採取が1914年、売薬・写真が1911年。
これがもし件の日本神農院であるとすれば、1911年に売薬事業を開始したという記述が先ほどの1912年以降に文雄がラングーンに到着した話と合致してきます。
さてもう一つ、1919年11月時点のラングーン日本人会の評議員の一人に野村喜祐の名前があります。ただしこれも日本神農院ではなく「野村醫院」の医師としてです。
現状日本神農院に関係していそうな記述で見つけられたのはこの2点のみです。土浦史では大繁盛したとあるものの、当時の記録で医者として成功している人物で挙げられているのは「佐藤」「鈴木」「木村」といった面々。
とはいえこの2点と先述の文雄の上陸が1912年以降という仮説を組み合わせると意外といい線いってるのでは?という話になってきます。
1911年に加藤が日本神農院(ないしは日本神農薬房)を開業、開業から5年後の1916年にその経営を野村喜祐に譲り、野村はその3年半後、1919年(ないしは1920年)に帰国した、とすると1919年11月の日本人会評議員に野村の名前が載っているのもギリギリつじつまが合います。
また1912年のカルカッタ航路開設以降に文雄がラングーンに到着し、目抜き通りに日本神農院(日本神農薬房)の看板を見つけたこともつじつまがあいそう。
そして1912年のカルカッタ航路開設直後に文雄がラングーンに到着したと仮定すると、そこから10年後の1922年に日本へ初めて手紙を出し、その翌年に結婚したとすれば嫁探しに10年近くかかった不思議も解決するのです。
とはいえ15で家出をしてから25(1912年頃)までの間に空白の10年間が生まれるという新しい疑惑も出てしまうのですが。。。
ちなみに外務省発行の「海外各地在留本邦人職業別人口表」でラングーンが初めて登場するのが1916年(大正5年)版。それによればラングーンの医師は男性7名女性6名となっております。もちろん調査に協力していない人もいたと思います。
以上を踏まえて先ほどの時系列を修正すると
・01歳 1887年/1888年 誕生
・15歳 1902年/1903年 家を出て横浜へ
・15歳~25歳 空白の10年
・26歳頃 1912年/1913年頃 カルカッタ航路に乗船しビルマへ
・32歳頃 1919年/1920年頃 野村より経営を譲られる
・36歳 1922年/1923年頃 結婚
・40~41歳 1928年 披露宴の為帰国
・54~55歳 1946年秋 引揚
となってきます。先ほど書いた通り、空白の10年は謎ですね、仮にその10年間日本郵船での下積みをしていたとすると、ふらりと入った病院で誘われたからと言って即座に転職を決意できるとは思えないですし。
もしかしたらなんですけど根本的に土浦史にあった文雄の年齢が78でなく68であったなら全てつじつまがあうんですけどさすがにそれはないかな。
と、言うわけでマジで誰が興味あるんだよ的なあれなんですけどひたすらにニッチを攻めるをテーマにしている当ブログでは今後も誰にも興味のなさそうなミャンマー関連記事を上げていきます。
そして最後に超余談になりますが、何度も名前が出てきた野村喜祐、同時代同姓同名の医師が存在しており同一人物では?と思ったのですが、残念ながら別人でした。
こちらの野村喜祐は1882年(明治15年)に山梨県で生まれ、1906年(明治39年)に医師免許取得。その後東京の小河内村(現奥多摩町)にて長年地域医療に尽力し、奥多摩ダムに沈むこととなった小河内村の最後の村長を務めております。
これが同一人物だったらビルマでの経験を活かして云々、と言えたんですけどね。
以上、僕が調べられた情報はこれだけですが、もし飯山文雄や日本神農院について更なる情報をお持ちの方は右下のContactより是非ご一報ください。
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