Address : 新潟県新発田市西園町3丁目
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陸上自衛隊新発田駐屯地の道を挟んだ向かい側にある新発田西公園。
春には桜が咲き誇るこの公園には歩兵第16連隊創設以来の戦没者を祀る様々な慰霊碑が存在する。
その中にはパゴダを模したものもあり、これは1970年(昭和45年)に歩兵第16連隊の戦友会であるあやめ会により建立されたものである。
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新発田で編成された歩兵第16連隊の歴史は古い。
その始まりは1884年(明治17年)6月まで遡り、以来、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、支那事変、そして太平洋戦争と近代日本における対外戦争のほぼすべてに参加してきた歴史を有し、鉄石の団結を持った越佐健児の勇名を馳せたという。
太平洋戦争においては1942年(昭和17年)1月に宇品を出港し、高雄(台湾)、カムラン(ベトナム)を経て3月1日にジャワ島へ上陸。ジャワ島各地での戦闘に参加した後9月にはバタヴィア(現ジャカルタ)を出港し、10月15日にガダルカナル島へと上陸する。
多数の餓死者を出したことから「餓島」とも呼ばれたガダルカナル島で2,200余名の死者を出し、2月に撤退。その後はニューブリテン島ココポで残留部隊と合流、マニラにて内地からの補充員を加え部隊の再建と訓練に努めた。
10月にシンガポール上陸、マレーのイポー(Ipoh)に聯隊本部を置き1944年(昭和19年)1月にビルマ戦線へと投入されることとなる。
泰緬鉄道を利用してビルマへと入るとペグ―(現バゴー/Bago)、ラングーンを経てバセイン(現パテイン/Pathein)に聯隊本部を設置。7月下旬までベンガル湾沿岸の警備に当たり、その後は中国雲南省やバモー(Bhamo/ဗန်းမော်)での戦闘(断作戦)、メイクテーラ会戦、イラワジ会戦に参加。その後はピリン(Bilin/ဘီးလင်း)付近の警備を担当し、1945年(昭和20年)7月に仏印へと転進、ベトナムのロンタン(Long Thành)にて終戦を迎え9月10日(ホンカンにて)に軍旗奉焼し半世紀以上に渡った第16連隊の歴史に幕を閉じた。ビルマでの戦死・行方不明者は2,021名を数えたという。
なお軍旗は連隊長の判断で房を切り取り一部を日本へと持ち帰り、新潟縣護國神社に奉納されたという。
1946年(昭和21年)5月、復員完結。
このパゴダを模した慰霊碑は、戦後25年を記念し1970年(昭和45年)8月16日に戦友会であるあやめ会により建立されたもの。ビルマの象徴であるパゴダを模り、これを通じて亡き英霊を故山に迎えその冥福を祈り長く後世に平和を希うことを建立趣意としている。設計は石原昭三良、施工は新発田建設株式会社(外部リンク:公式)。
2002年(平成14年)9月18日には改修工事も行われ、施工に引き続き新発田建設株式会社が担当した。
先述の通り公園内にはこの慰霊平和塔以外にも以下の碑が存在し、毎年5月には越佐招魂祭が行われている。しかしながら2020年(令和2年)に高齢化による会員減で祭典委員会が解散しており、当面は新潟県議、新発田市議らでつくる「越佐招魂社奉賛会」によって碑の管理と招魂祭の運営が引き継がれることとなったが、全国の慰霊碑同様今後の見通しについては明るいとは言えないだろう。
新発田西公園にあるその他の碑
・越佐戦没者納骨堂
・越佐招魂碑(日清戦争戦没者慰霊)
・シベリア出兵戦没者残骨灰埋葬地
・日露戦役忠霊塔
・合同忠霊塔(支那事変戦没者慰霊)
・ガタルカナル島戦記念碑
・軍旗奉焼の碑
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越佐戦没者納骨堂 |
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越佐招魂碑 |
2021/03・2021/09撮影
参考:
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