Address : 兵庫県姫路市名古山町14-1 名古山霊苑内
姫路の名古山霊苑内には二つのビルマに関わる慰霊碑が存在する。
どちらも第54師団歩兵第111連隊に関するもので、そのうちの1つがこの「ビルマ戦線 つわもの四間隊の碑」である。
この碑は歩兵第111連隊の中でも、第二中隊の隊長、四間武治大尉以下153名を慰霊、顕彰するためのもので、四間大尉の妻と息子が発起人となり1977年(昭和52年)5月に建立された。
参考:あゝビルマの戦友の碑
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碑文によれば四間隊は1943年(昭和18年)2月17日に第54師団の臨時動員下令により編成され、3月10日に広島の宇品港を出港しジャワ島へと向かい、スラバヤ付近の防衛任務に服した。
同年秋、ビルマ方面へと転用され1944年(昭和19年)1月5日にインドとの国境近くのアキャブ(現シットウェ)に進駐し第28軍の隷下に入る。
1945年(昭和20年)に入り、戦況の悪化とともに転進を続けていくが、カラダン河上流のヨーゴン集落にて連合軍との熾烈な戦闘がありその地で多数の隊員とともに中隊長の四間武治は戦死する。
それでも残った隊員たちは中隊長の意思を継承し、堅忍不抜あらゆる困苦欠乏に耐え、東へと転戦し最終的にシッタン河を渡るまで数多くの作戦で勇戦奮闘、尽忠報国の精神を発揮したという。
結果的に四間中隊は中隊長であった四間武治を含め153名が戦死したという。
編成時の人数は不明ながら、日本陸軍の一般的な歩兵中隊の人数が120~150名程度であったこと、碑の裏面に建立に協力した生存者として記された名前が11名だけであったことからそのほとんどが戦死したと考えられる。
碑の揮毫は建立当時の姫路市長であった吉田豊信(在任:1967~1983年)。毎年5月の第2日曜日にささやかながら慰霊祭を行っているという。
また同碑に並ぶ「群青に眠る白桜(昭和58年8月)」と「鎮魂(昭和58年5月22日)」の両碑はそれぞれ呉鎮守府大竹海兵団昭和18年4月入団志願主計兵生還同期生と第17師団輜重兵第17連隊戦友会(揮毫は最後の師團長・酒井康中将)により建立されたもの。
なお、名古山霊苑の中央には大岡實設計の巨大な仏舎利塔があり、内部には1954年(昭和29年)4月にインドのネルー首相より贈られた仏舎利が奉安されている。
2020/12撮影
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