正面に残る「天主堂」の文字から、この教会が中国人向けのものであることが想像できる。
1927年11月20日に完成したこの教会は、ラングーンにおける中国人向け宣教活動の拠点ともいえる場所であった。
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ラングーンにおける中国人向けカトリック宣教活動が本格化するのは、1901年にMEP(The Society of Foreign Mission of Paris)のGermain Allardがビルマへ赴任してきて以降のことである。
赴任当初、彼はSt. Mary's Cathedralの助祭やSt. Paul's High Schoolの神父として働いていたが、しばらくしてから中国人向けの宣教活動に従事することとなる。
宣教のために彼はシンガポールで2年間中国語や中国文化を学び宣教活動の準備を行い、1907年にラングーンへ戻るとSt. John's Churchの神父として本格的に中国人向け宣教活動を開始する。しかし資金面での問題を中心に様々な困難にぶつかり、体調を崩した彼は療養のため1909年にフランスへ帰国することとなる。
1912年に再びラングーンへ戻ったAllardは在住中国人たちの支援をうけ、1915年に現在教会が建っている土地を購入し最初の教会を建設する。
当時は1階部分を学校として、2階部分を礼拝堂として使用していたが、すぐに手狭となり新たな教会建設が望まれることとなる。
1925年に信徒の1人であるVictor Joseph Marianoから大きな支援を受け、教会及び学校の建設が始まる。新たに建てられる教会は、同年に列聖されたリジューのテレーズ(Thérèse de Lisieux)に捧げられ、Saint Theresa's Churchと名付けられることとなった。
こうして1927年11月20日に現在まで残る教会が完成し、隣地にはCatholic Anglo Chinese School(現BEHS No.6 Ahlone)が建てられた。
なお、教会には建設当時尖塔があったが、1930年の地震の際に崩れてしまったという。
こうしてこの教会を中心として中国人のための教区が作られたが、この教区はラングーンのみならずイラワジデルタに住む中国人信徒をも対象としたものであった。
1941年の日本軍による爆撃の際には、近くにアローン発電所があったことから被害を受けるも、幸いなことに現在までその姿を変えることなく存在し続けている。
なお、Allardは1928年ごろから体調を崩し、療養を続けながら宣教活動に従事したが、1937年、インドのバンガロールにて死亡した。
最盛期には6,000人近くの信徒数を誇ったこの教区も、1962年にクーデターにより政体が一変すると、多くの中国人たちは本国へと帰って行ってしまい徐々に人数を減らしていくこととなる。
それでもこの地にとどまり続けた信徒たちも少数ながらおり、2009年の時点で600名ほどの信徒を数え、現在までミャンマー語及び中国語でのミサが行われている。
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