極彩色のゴープラムと呼ばれる塔が目を引くヒンドゥー寺院は、破壊と殺戮の象徴であるカーリー(Kali)に捧げられたもので1871年にイギリス領インド帝国のタミル地方からの移民により建立された。
なお、ゴープラムはドラヴィダ様式の建築で主に南インドのヒンドゥー寺院に用いられており、ヤンゴン在住の方はヒンドゥー寺院と言えばこのゴープラムをイメージする方も多いかもしれないが、ゴープラムを有しないヒンドゥー寺院も少数ながらヤンゴンに存在する。
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この寺院は1871年に南インドのタミル地方に出自を持つRamanujam Chettiarにより建立された。恐らくその名前が示す通り、ヴァイシャ(Vaishya)カーストの中でも貸金業を生業とするチェティア(Chettiar)であったと考えられる。
チェティアと呼ばれる貸金業者たちは第一次英緬戦争(the Anglo-Burmese War : 1824-26)のころから少数ながらビルマに移住していたが、本格的な移住は下ビルマ併合(1852年)とその後のスエズ運河開通(1869年)以降である。
スエズ運河の開通は世界の時間距離を格段に縮め、ビルマも「米の供給地」としてグローバル化の枠組みの中へ組み込まれていく。
イギリス植民地になる前のイラワジ(現エーヤワディ)デルタはそのほとんどが未開地域であったが、米の需要増とともに一気に開墾が進められた。
*下ビルマの米作付面積推移(単位:エーカー)
1830年:66,000
1855年:993,000
1875年:1,735,000
1900年:6,578,000
1925年:9,318,000
1935年:9,702,000
こうした米需要の拡大と農地の増大は農業従事者の必要性を生み、インド南部を中心に低カースト層のビルマ移住と上ビルマからのビルマ人の移住に繋がった。
農地の拡大に伴いチェティアは農民に対し土地や家畜を担保として融資を行っていき、ビルマの農業融資において最も重要な役割を果たしていくこととなる。
しかしこの担保付き融資は結果的に農民の小作人化と不在地主化を生み、実際に1930年には6%程度であったチェティアの農地占有割合は1937年には25%までに膨れ上がっている。
こうしたチェティアへの土地集積は土着社会からの憎悪の対象となり、ビルマ人とインド人との対立を生むこととなっていった。
1948年にビルマがイギリスから独立を勝ち取った後、チェティアを含むインドに起源をもつ人々は「準国民」という立場で不平等な扱いを受けた。加えて1962年のネウィンによるクーデターで国内産業の国有化がなされると、土地や財産を奪われた多くのインド人はビルマを離れてしまう。
2011年から2012年にかけて大規模な修復工事が行われており、現在までタミルにその起源をもつインド人たちから厚い信仰の対象となっている。
Kaliは「黒き者」、「時」を意味し、血と殺戮を好む戦いの神である。シヴァ神の妻の一柱であり、Kalima(カーリーマ:黒き母)とも呼ばれ、その名前の通りこの寺院の中央聖所にあるKaliの像は黒色である。
3つの目と4本の腕、生首もしくは髑髏の首飾りや長い舌といったおどろおどろしい外見上の特徴を持ち、夫であるシヴァの腹の上で踊る姿で描かれることも多い。
かつてインドで存在していたタギー(Thuggee)と呼ばれる暗殺集団はKaliを信奉し、その供物として信者に年1人以上の殺人を課していたとされる。
参考文献:
中央公論新社
Dom Pub
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