1915年着工、1919年竣工。総工費222万ルピー。
華僑実業家のLim Chin Tsongが自身の邸宅として建築したもの。使われている大理石はイタリア産。
欧風と中華風が混じった独特の建物は、コロニアル風の2階建ての上に3階建ての八角形の塔が立つ。
2017年11月時点で塔部分の3階以上は鍵がかかっており立入不可。
1919年に完成したこの建物は100人が着席できるダイニングと広大な庭を有する。
1923年に所有者であったLim Chin Tsongが死亡し、残された家族も1924年はこの邸宅を手放し、その後は植民地政府が所有。1941年から1945年の日本軍による占領時代はラジオ局(All Burma Broadcasting Station)として利用された。
ビルマ独立後の1951年、Kanbawza Yeikthaという名のホテルに転用され、1960年代には近隣にあったInstitute of Economics and Rangoon Arts and Science Universityの女生徒用宿舎になり、そして現在はMinistry of Culture Fine Arts Schoolとして利用されている。
かつて邸宅内にはペルシャ絨毯や陶磁器、チークの家具などがあり、当時のLim Chin Tsongの栄華を物語っていたが、既にそういったものはなくなっており、現在では彼がErnest ProctorとDod Proctorの夫妻に描かせた絵画が壁や扉に残るのみである。
ちなみにこの夫婦とLim Chin Tsongの出会いは、彼がロンドンを訪れていた時、昼食をとったピカデリーサーカスの中華料理店オーナーに、自身の邸宅のために画家を紹介してほしいと依頼したのがきっかけ。この時たまたまErnestとDodのProctor夫妻も近くの席で食事をとっていたという。
またこの建物の地下にはInya Lakeに繋がる秘密のトンネルがあるという噂もある。
Lim Chin Tsong(林振宗):1867/10/28-1923/11/5
ミャンマー生まれの華僑、実業家。Saint Paul's High School(現BEHS 6)出身、Rangoon College(現University of Yangon)卒。
Saint Paul's High School時代は当校設立者、Paul Bigandetのお気に入りの生徒であった。中国語は話せるが読み書きはできなかったらしい。
彼の父であるLim Soo Hean(林仕興)は福建出身の中国人で1861年にアモイからビルマへ移住した。Lim Soo Heanも実業家でChop Lim Soo Hean(林仕興商行)という米の貿易会社のオーナー。
ただし彼は中国語しか話せず、インド人やイギリス人といった英語圏の商人とコミュニケーションがとれず、事業の拡大はあまりうまくいっていなかった。息子に対して熱心な教育を与えたのはそういった理由があったのかもしれない。
大学卒業後は父の事業に従事。1888年に父が亡くなると、事業を引継ぎ、また事業拡大して米の取引だけではなく石油取引も開始した。
1891年にはBurmah Oil Company(現British Petroleum)の現地独占エージェントになる。
更にゴムのプランテーション・精糖所・金やタングステン、銅、スズの採掘と事業を拡大していく。
また現地の教育にも力を入れ、1903年にはTeong Hwa School(中華義學)やAnglo-Vernacular Schoolを設立する。1906年には自身の名を冠したLim ChinTsong Chinese and Western English School(林振宗中西英文學校)を設立。この学校には香港やマカオからの中国人留学生も多数いた。
加えて植民地ビルマの立法評議会のメンバーも務め、1919年には第一次世界大戦における連合国軍への資金協力により、大英帝国勲章(Order of the British Empire)を受勲している。またRangoon Tuf Clubのオーナーでもあり、彼の名を冠したポロの大会である"Lim Chin Tsong Polo Cup"は彼の死後も続いたという。
しかし、ビルマのみならず世界的に見ても栄華を極めた日々も終わりを迎える。
1921年に植民地政府が米価格の急騰のためインドを除く国との取引を禁止し、その結果ビルマ国内での米市場は崩壊した。さらにBurmah Oil Companyも彼とのエージェント契約を解除し、彼のビジネスの土台は崩れてしまう。また彼の所有する2隻の商船が、アモイに向かう途中に沈没するといった事件もあった。
以降の彼は所有していたRolls Royceを売却したり、知人から金を無心したりと、狂人と揶揄されることになる。
そして1923年に心筋梗塞により死亡したが、彼の死には破産を原因として塔から投身自殺をした、通貨偽造のトラブルに巻き込まれた、といった噂もある。
Serindia Publications, Inc
River Books
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