1988年(昭和63年)、諫早市の北の丘に1基のパゴダが建立された。
種苗業を営む八江農芸株式会社の創業者、八江正𠮷(1918-1989)により建立されたこのパゴダは、「戦いを鎮める」を意味するヤンエーパゴダと名付けられた。
八江正𠮷は1918年(大正7年)2月10日、八江家の長男として生を受けた。
1938年(昭和13年)に陸軍に入隊。第18師団(菊兵団)の一員として中国大陸、マレー半島、シンガポール攻略戦を経て、ビルマ侵攻作戦に従軍。雲南作戦での功績により1943年(昭和18年)11月に警備隊長としてバモー(Bhamo)に着任した。
そこで当時バモーの県知事であったウ・ラテン(U Hla Tin)と生涯に渡る運命の出会いを果たした。初対面から意気投合し、以降、毎日のように治安維持に関する打ち合わせなどを重ねる中で親交を深め、八江はウラテンを父と、ウラテンは八江を息子と呼ぶほどの間柄となり、ウラテンのみならずその家族とも関係を深めていった。
年が明けてしばらくした頃、八江にミイトキーナ(ミッチーナ/Myitkyina)への転属が命じられる。当時のミイトキーナ県知事は日本軍に対して非協力的であったことから、八江はウラテンを後任の県知事として推薦し、自らバモーへ赴きウラテンの説得にあたった。ミイトキーナは既に激戦地であり、当初ウラテンは難色を示したが、3日間に及ぶ説得の末、外ならぬ八江の頼みであることからこれを承諾。八江と共に家族を伴いミッチーナへと転居した。
なお、ウラテンには妻との間に四男四女の子供がおり、一家総勢10名での転居となった。
ミイトキーナにおいても両者の関係は変わることはなかったが、インパール作戦の失敗などにより戦局は急速に悪化していく。
そんな中、ミイトキーナ北方に取り残された約400名ほどの部隊の救出任務が八江に命じられた。これは、敵陣を突破し友軍と合流し、再び敵陣を突破しミイトキーナへ帰還するという、成功の見込みがほとんどないものであった。八江自身もこの任務で男の最期を飾ろうと心に期しており、今生の別れを覚悟し、ウラテン家を訪れ最後の別れを告げた。
お互いに涙を流しながら語り合い、その場でウラテンは一族に伝わる仏舎利を八江に贈った。ウラテンの娘の手により、仏舎利を入れた小袋が軍帽の裏布に縫い付けられた。
7月17日、作戦が決行された。豪雨の中敵陣を突破し、友軍と合流。多くの犠牲を払いながらも再び敵陣を突破して帰還を果たした。八江は不可能と言われた作戦を成功に導いたが、その代償として大腿部に銃弾を受け、以降は自由な歩行も困難な状況となってしまった。
作戦自体は成功したものの、戦局を覆すほどのものではなく、同年8月、ついにミイトキーナは放棄され、バモーへと転進することとなった。なお、ミイトキーナの戦いでは自決した水上源蔵少将含め、2000名近い戦死者を出した。
撤退に際し、八江はウラテン一家とともにイラワジ河を渡河し山中をバモーへと向かったが、途中で部隊命令によりウラテン一家とは別れることを余儀なくされる。
更に八江自身も自由な歩行ができない状況であったことなどから本隊とはぐれ、少数の部下とともに行軍することとなった。敵襲を受けながら山中を進み、雨季のイラワジ河を小舟や筏、更には流木に体をくくりつけるなどして下り、苦難の連続となったものの最終的にバモーへとたどり着くことができた。
なお、バモーについた時には軍帽に縫い付けていた仏舎利はなくなっていたという。八江は、仏舎利が身代わりになったのではないかと考えた。
バモーに到着した八江はウラテン一家の消息を探るが、ついに手掛かりを得られなかった。バモーにしばらく滞在した後、マンダレーを経てラングーン(ヤンゴン)へ移動し、1945年(昭和20年)4月にはモールメン(モーラミャイン/Mawlamyaing)に撤退、同地で終戦を迎えた。終戦後はムドン(Mudon)の収容所で10カ月の捕虜生活を送り、1946年(昭和21年)8月に復員。
帰国後の1948年(昭和23年)、八江は戦争体験を踏まえ、平和産業ともいえる種苗業を創業する。一方で引き続きウラテン一家の消息を探し続けてたが、残念ながら一家に関する消息は掴めないままであった。
そうした中、1958年(昭和33年)に転機が訪れた。八江の知人である入江信がビルマでの1年間の任期を終えて帰国し、その帰国直前にウラテンとの面会に成功したと報告があったのである。入江はラングーンでウラテンと直接面会し、ウラテンやその家族の近況を確認した上で帰国し、八江にその旨を報告した。
ビルマで別れてから14年、ここに両者の関係が再び結ばれたのだ。
以降、お互いに手紙を送りあいながら交流を続けていき、別離の時間を埋めていった。そうした中で、ウラテンは八江がパゴダの建立を計画していることを知る。
1959年(昭和34年)に八江の友人がビルマのウラテンを訪問した際、ウラテンは仏舎利を内部に奉じた仏像を八江に贈った。ウラテン一族に伝わる仏舎利が、形を変えて再び八江の手に渡ることになったのだ。
なおウラテンが贈ったこの仏像は、ビルマ最初の王朝と伝えられているタガウン朝(Tagaung Dynasty)の遺跡から出土したものだという。
同年4月27日、諫早市の安勝寺にてこの仏像の贈呈式が執り行われた。式典には門司の世界平和パゴダのウ・ケミンダ(U Kemminda)や帰還者、遺族なども参列した。
贈られた仏像は当面の間、同じく諫早市の教法寺に安置し、将来パゴダを建立した際にはそちらへと遷座する計画であった。
その後も両者の交流は続き、1964年(昭和39年)3月、ビルマ戦績巡拝団の一員として八江は戦後初めてビルマの地を訪問し、20年の時を経てウラテンと再会を果たした。
1969年(昭和44年)9月にウラテンは逝去するが、その後も八江とウラテン一家の関係性は変わることなく続いていった。1979年(昭和54年)にはウラテンの孫であるモンモンキが来日し、八江農芸に就職し、1983年(昭和58年)には日本人女性と結婚している。八江とウラテンが繋いだ絆は、日本とビルマの絆へと広がっていったのだ。
1977年(昭和52年)4月8日、八江農芸の新社屋が落成したのを機に、長年教法寺に安置されていた仏像も新社屋へと遷座されることとなる。遷座式の導師は薬師寺の高田好胤が務めた。またそれ以降は毎年4月に花祭りとともに慰霊法要を行っている。
そして1988年(昭和63年)、創業40周年の年についに八江は宿願であったパゴダの建立を叶えることとなる。
1988年4月28日、八江農芸の種苗育種農場内に八角形のパゴダが完成した。内部には贈られた仏像の他、戦中仏舎利を縫い付けていた軍帽や、復員した戦友たちから贈られたビルマの竪琴や仏像なども安置された。
仏像の遷座法要並びにパゴダの落慶式典には、衆議院議員の倉成正(仏舎利塔建設協力会代表)や駐日ビルマ大使、ウラテンの親族など計1000人ほどの参列者を数えた。工費は約1億円。そのうちの3割程度を全国からの浄財で賄ったという。
ヤンエーの名前は平和を願う理由の他、「やえ」と響が似ているという点もあるという。
なお、八江はパゴダ建立の翌1989年(平成元年)9月23日、71歳で逝去した。
八江農芸は1995年(平成7年)にミャンマーでの事業を開始するなど、以降もミャンマーとのつながりは消えることなく、ヤンエーパゴダも現在まで手厚く管理がなされている。
なお、八江によればウラテンはビルマ王族の出自とされるが、残念ながら具体的な系譜については確認できなかった。八江が著した「イラワジの誓い」では、ウラテンの父は戦中メイミョウ(Maymyo)で日本軍の庇護を受けていたことや、タイ王室とも姻戚であったことから戦後2年ほどバンコクで生活をしていたことなどが記されている。
参考文献:
朝日新聞 1988/04/27
長崎新聞 1971/06/22・1983/07/03・1988/04/28
飛翔 八江農芸40年の歩み
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| 戦中八江が使用していた軍帽 |
ヤンエーパゴダ(Yan Aye Pagoda)
Address : 長崎県諫早市福田町1441−3 八江農芸株式会社育種農場内
2025/05撮影















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