東海道五十三次、16番目の宿場町、由比。現在は桜えびの町として全国に知られているこの町の市街地から北へ向かうと、入山の山中にひっそりと仏舎利塔が存在する。
参考:
高さ23mほどのこの仏舎利塔は1974年(昭和49年)に、由比にて造り酒屋を営んでいた望月武司による発願で建立されたものだ。
望月武司は1907年(明治40年)、由比で造り酒屋を営んでいた望月由松の長男として誕生した。現在まで続く
神沢川酒造場(公式)は武司の父である由松と、武司の祖父にあたる金蔵により1912年(大正元年)に創業された。
特に銘酒「正雪」は地元由比の兵法家で江戸幕府の転覆を企てた慶安の変(慶安4年/1651年)の首謀者である由比正雪からその名をとっており、現在まで多くの愛好家がいるという。
武司は1925年(大正14年)に静岡商業高校を卒業し家業に入り、3代目蔵元として神沢川酒造場の発展に貢献してきた。どういった経緯で世界平和を標榜するようになったかは定かではないが、1951年(昭和26年)に結成された静岡県平和推進国民会議(平和推進国民会議の下部組織)の実行委員を務めるなど、平和運動への関心は早い段階から強かったようである。また1954年(昭和29年)には、釈迦生誕2500年祭に際し、インド・セイロン(現スリランカ)などを回り世界平和を祈願してくるなど、平和運動への熱意はかなりのものであったことが想像される。
残念ながら仏舎利塔建立発願の具体的な時期についても不明ではあるが、1973年(昭和48年)の暮れごろより仏舎利塔の建立が始まり、約5,000万円の私財を投じて翌1974年(昭和49年)10月10日に高さ23m、直径18.4m、鉄筋コンクリート造りの仏舎利塔が完成し、落慶式を迎えることとなった。
落慶式には日本山妙法寺山主である藤井日達上人や関係者約1,000名ほどが参列したという。また内部に奉祀された仏舎利は藤井上人がインドから持ち帰ったもので、仏舎利塔の相輪はスリランカより贈られたものだという。そうした経緯からか落慶式には駐日スリランカ大使も臨席している。
なお、この仏舎利塔はもともと浜石岳中腹を建設予定地としており、その地に小宝塔の建立までは済ませていたが、当時由比町が強力に推進していた青少年野外センターの建設と競合したため、やむなく現在地である入山舟場紅葉山へと変更となった。仏舎利塔の脇にはその際に建立されたと思われる小宝塔が現在も残されている。
余談になるが、競合した青少年野外センターは仏舎利塔の落慶式典の翌月11月18日に落成式が行われ、本年2024年(令和6年)3月末をもって閉所されている。
|
小宝塔 |
こうして建立された仏舎利塔だが、現在この塔が管理されている様子はほとんど見受けられない。仏舎利塔の四方には他の仏舎利塔同様仏龕が配されているが、中央(転法輪印)、左右(向かって左側面:誕生仏 右側面:触地印)に仏像が安置されている一方で後方は空となっている(おそらく涅槃仏が設置される予定であったのだろう)。落慶法要を行ったとはいえ仏像が不在であること、基壇部分の工事が中途半端で終わっていることなど、この仏舎利塔自体が完成をみることはなかったようである。
|
中央 |
|
左側面 |
|
右側面 |
|
背面 |
武司が蔵元を務めていた神沢川酒造場は、武司の息子である浩明が4代目として、そして更に当代5代目として望月正隆が継いでいる。正隆は2017年(平成29年)より静岡県酒造組合の理事長を務めるなど、神沢川酒造場は県内の造り酒屋の中でも中心的な存在であるのだろう。
このように家業が大きな発展を遂げた一方で、先生代が建立した仏舎利塔がこのような状況にあるのは不思議に感じるが、残念ながらその理由については不明である。
なお、本件について神沢川酒造場に問い合わせを行ったが、現在まで回答は得られていない。
参考文献:
金井重道・望月政治:望月氏の歴史と誇り
由比町報 第266号
読売新聞静岡版 1974/10/11
日本人事録 東日本編4版
静岡県労働運動史
入山舟場佛舎利塔
Address : 静岡県静岡市清水区由比入山
2022/11撮影
スポンサードリンク
0 件のコメント:
コメントを投稿