稚内から西へ50kmほど、日本海上に浮かぶ利尻島には恐らく日本最北の仏舎利塔が存在する。
1981年(昭和61年)に建立された高さ7.5mの八角形の仏舎利塔には、中国から伝えられたという仏舎利が奉祀されている。
1985年(昭和60年)、利尻町の沓形市街にて食堂「三平」を営む葛西寛治により、仏舎利塔の建立が始まった。
1年近い歳月と約2,000万円の建設費をかけた仏舎利塔は、翌1986年(昭和61年)5月18日に開塔式が執り行われ内部には葛西家に代々伝わる仏舎利が奉祀された。
現地の案内板によれば、この仏舎利は葛西の母方の曽祖父である岸田忠三郎が知人から譲り受けたものだという。曽祖父の岸田は明治維新後、急速に発展する箱館(函館)において三菱会社(現日本郵船)と強い繋がりを持ち財を成した海産物問屋で、所謂「東京商人」と呼ばれる道外から函館にやってきた新興商人の1人であった。また1879年(明治12年)に設立された東京海上保険会社(現東京海上日動火災保険)の創立時株主の1人(2株200円)としてもその名を連ねた。
1971年(昭和46年)4月に母親であるフデから、岸田から数えて四代目として仏舎利を受け継いだ葛西は、全国各地を巡り仏舎利を所有する寺院などを訪れながらこの家宝である仏舎利が本物であるかの調査を行ったという。残念ながら本物であるという決定的な手掛かりは得られなかったものの、仏舎利が包まれていた和紙と、「仏舎利」と書かれた墨書の年代から、これらが約800年前のものだとわかったという。
少なくとも葛西は、これらの調査によりこの家宝が本物であるという確信に至り、その頃より仏舎利塔の建立を願うようになったという。
葛西には生涯を通じて心に重くのしかかり続けた事件があった。それは1956年(昭和31年)4月18日に発生した海難事故である。元々葛西家はニシン漁の親方をしており、この海難事故で亡くなった35名の鰊漁夫のうち、24名が葛西漁場の人間であった。彼らの霊を慰めることは葛西にとって生涯の願いであったのだ。
そして1985年に遂にその計画を実行する段となり、かつての鰊番屋跡地に仏舎利塔が建立されることとなった。
1年をかけて建立されたコンクリート造りの仏舎利塔の内部には家宝である仏舎利の他、釈迦像、先祖や海難事故で亡くなった漁夫の写真や名前なども祀られた。また本業が食堂であった関係からか、塔内では食事ができる食堂も併設されており、島民にとっての憩いの場としても利用されていたという。
5月18日午前8時から行われた開塔式では、町内関係者約40名が参列、3名の僧侶による読経や参拝者による焼香が行われた。当時の報道によれば歴史的施設が少ない利尻島にあって、新たな観光名所としての期待も大きかったようである。
しかし建立から四半世紀が経過した現在、仏舎利塔は島民誰からも顧みられることはなく、その存在すら忘れさられてしまっている。入り口には鍵がかけられ内部へ入ることはかなわず、隙間から覗き見れる限り当時あったという先祖や漁夫の写真なども確認できなかった。
このような状況になった原因は、建立から3年が経過した1988年(昭和63年)1月26日に、葛西が経営していた食堂から出火し葛西が妻と共に命を落としたことがあげられるだろう。出荷は食堂内にあったストーブの消し忘れと考えられ、両隣の建物とともに3軒が全焼、出火元である葛西夫婦が亡くなった。
こうして所有者を失った仏舎利塔は、おそらくその後管理するものもないまま時が過ぎ、現在の状況に至ったと考えらえる。
貴重な仏舎利が奉祀され、かつて観光名所として期待されたこの塔が、再び賑わいを取り戻す日が来ることを願ってやまない。
参考文献:
函館市史 通説編 第2巻
東京海上火災保険株式会社60年史
日刊宗谷 1956/04/19・1985/11/08・1986/05/16・1986/05/21・1988/01/27・1988/01/28
広報りしりNo.204(昭和63年3月号)
佛舎利塔(利尻沓形)
Address : 北海道利尻郡利尻町沓形神居2023/06撮影
0 件のコメント:
コメントを投稿