Address : 福岡県久留米市大善寺町宮本1463-1
通称号に皇室の紋章である「菊」の名を与えられ、国軍最強と言われた第18師団。
ビルマ戦線における激戦地を戦い抜いた菊兵団の記念碑が、師団ゆかりの久留米市に存在する。1976年(昭和51年)に同隊の生存者一同により建立されたこの記念碑は、「菊花之塔」と名付けられた。
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第18師団は1909年(明治42年)に主に福岡・佐賀・長崎三県出身者により編成され、司令部を久留米市に置いた。1925年(大正14年)、軍縮のため廃止。
日中戦争(支那事変)の勃発とともに戦火が大陸全土へと広がる中、1937年(昭和12年)9月に再び動員が下令され、大陸での各作戦に従事した。
1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まるとマレー作戦、シンガポール攻略作戦に参加。当時難攻不落と言われたシンガポールを陥落させたことでその名を世界に轟かせた。
1942年(昭和17年)4月にはビルマへと転戦、ラングーン上陸後北上を続け5月1日マンダレー入城、英印軍をビルマから駆逐し北ビルマの警備にあたる。
以降フーコン作戦、イラワジ会戦、メイクテーラ会戦、シッタン作戦などに参加し2万人以上の犠牲者を出し終戦を迎えた。終戦後は1年近い収容所生活を送り、1946年(昭和21年)7月以降、順次復員を果たし不滅の武名を残した菊兵団は終わりを告げた。
1976年(昭和51年)12月、菊兵団の戦績を後世に伝え、戦没者の慰霊顕彰に努めるとともにその犠牲の上に築かれた平和の恒久たることを祈念し、師団ゆかりの地である久留米の玉垂宮にこの「菊花之塔」が建立された。揮毫は元師団長の田中新一。
興味深いことに同塔建立のための拠金にはミャンマー人4名も名を連ねている(ウ・チイハン、ウ・モンコー、ウ・チョウセイン、ウ・チッセイン)。
毎年4月には菊花之塔慰霊祭が執り行われている。
2021/11撮影
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