英霊顕彰碑(山砲兵第33連隊第4中隊 戦没勇士顕彰碑)

Address : 栃木県宇都宮市陽西町1-37 栃木県護国神社境内


栃木県宇都宮市にある護国神社の境内には3つのビルマ戦線関連碑が存在する。
そのうちの1つで、2つ並んだ砲弾が特徴的なこの碑は1996年(平成8年)に第33師団山砲兵第33聯隊(通称号:弓6825部隊)の戦友会により建てられた。境内には同じく山砲兵第33連隊の慰霊碑があるが、こちらはその中でも第2大隊第4中隊のもの。

参考:



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山砲兵第33聯隊は1937年(昭和14年)に第33師団の師団砲兵として仙台及び高田にて東北各県、北関東3県、新潟県、長野県の出身者により編成された後、中国江西省へと出征した。
当初第11軍戦闘序列に編入され中国大陸にて各作戦に参加、1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦すると第15軍戦闘序列へと編入され、第三大隊は南方戦線へと転戦。
同隊を含む第二大隊は2月初旬に南京を発ち、3月初旬にバンコクに上陸、その後陸路でビルマへと進軍していった。
4月に先行していた本隊とプローム(現ピイ/Pyay)で合流、エナンジョン(Yenangyaung/ရေနံချောင်)の戦いなどに参加し、日本軍がビルマ全域を制圧した後はビルマ中部の警備につく。
1944年(昭和19年)3月8日にインパール作戦が始まると南からインパールへと進軍していった。第二大隊は右突進隊としてヤザジョウ(Yazagyo)から北上し、パレル(Pallel)を経由しインパールを目指したが、パレル攻略戦において多くの犠牲者を出した上、攻略もできないまま7月3日に作戦中止となる。
その後はイラワジ会戦やメイクテーラ会戦に参加するなど、最終的に同中隊の生存者は6名ほどであったといわれる。
ノーンプラードゥック(Nong Pla Duk)付近にて終戦を迎え、1946年(昭和21年)5月、復員完結。


本顕彰碑は1996年(平成8年)5月16日、復員50周年を記念し同中隊の戦友会である弓山砲山四会により建立された。
ビルマの地に眠る戦没勇士196柱を顕彰しその偉業を後世に伝えるために建てられ、碑の下部は山砲兵にちなんで砲弾の形となっている。
1999年(平成11年)3月には同戦友会により玉垣の整備も行われた。なお、戦友会の会長を務めていた友田浩は同中隊隊長でもあり、戦後は戦争体験を後世に伝えるべく積極的に講演活動などを行っていたという。







栃木県護国神社
2021/07撮影




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