ヤンゴンでは珍しいドームを有した教会は、1887年に創建されたバプティスト派の教会で建設当時は「ロンドンにあるSaint Paul's Cathedralのミニチュアのようだ」とも評された。
創建当時はイギリス国教会の教会として建てられ、Saint Philip's Churchと呼ばれていたが、1987年以降、チン族のキリスト教団体であるRangoon Chin Christian Association(1958年設立)に貸し出され、現在のSiyin Baptist Churchと呼ばれるようになった。
なお、Siyinとはチン州にある地名でSiyin族が住む集落である。
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1887年の創建当時は現在とは違う場所にあったと言われている。
当時の教会が1902年5月の台風で屋根の破損など大きな被害を受けたことに加え、ラングーンのキリスト教徒人口の増加にあわせて、新たに大規模な教会の建設計画が持ち上がることとなる。
この計画は教会のみならず学校の建設も含まれており、計画から10年近くが経過した1912年に現在教会が建っている土地の契約にサインをし建設が始まった。
この計画の資金はもともと教会があった土地の売却資金をもとにする予定であったが、新たな土地の土壌が柔らかく工事費が嵩む点、また材料費の高騰といった点から計画は思うように進まなかった。
1913年2月に教会よりも先に学校が完成し、Saint Philip's Schoolとして、こちらも現在までYangon City Heritage Listの1つとして存続している(現在はBasic Education High School No.2 Botahtaungと改名)。
途中第一次世界大戦の勃発等もあり、結局教会が完成したのは、建設計画から20年以上経過した1922年まで待たねばならなかった。
しかも資金不足から屋根はトタンを使用しており、雨が降ると教会内では雨音以外何も聞こえないような状況になっており、1926年に屋根を交換するまでこの状況は続いていた。
ちなみに建設にあたり、現在世界遺産にも登録されているカンタベリーにあるSaint Augustine's Abbey(聖アウグスティヌス修道院)から石を1つ贈られたという。
こうして建設までに様々な困難があったものの、完成後は500の席を有するラングーン東地区の中心的な教会となった。
第二次世界大戦では被害を受けたものの、破壊されることはなくその後も使用を継続しており、上述の通り1987年にRangoon Chin Christian Associationに貸し出され名称を現在のSiyin Baptist Churchと変更しながらも、建設当時と変わらぬ姿を今に伝えている。
なお、アメリカやオーストラリアにも同名の教会があり、これはチン族の難民や移民により建てられたもの。
さてここでチン族への宣教活動の歴史を見ていきたい。
ミャンマー北西部の山岳地帯という地理的要因もあってか、チン族への宣教活動の始まりは他地域と比べると圧倒的に遅い。
1886年にビルマに来たAmerican Baptist Missionary UnionのArthur E. CarsonとLaura Carsonの夫妻がThayetmyoを拠点として平野部に住むAsho-Chin族への宣教を始めたのが大きな枠としてのチン族への宣教の始まりとなる。
彼らは1899年にその活動の場を山岳地帯へと広げ、同年3月15日に現在チン州の州都であるHahkaに到着し、そこを拠点として山岳地帯にすむチン族に対して宣教を始める。
なお、チン族への宣教はこの1899年を始まりとするのが一般的である。
CarsonはHahkaを拠点としてチン州への宣教活動を行い、到着当初は宣教の準備として学校や病院の設立、また聖書の翻訳を行った。
1904年にはErik Hjalmar Eastが妻のEmily EastとともにHahkaに到着し、20の病床を有する最初の病院が設立された。
こうして宣教の開始から6年後の1904年に最初の改宗者を得ることとなる。
この時にキリスト教を受け入れたのはKhuasak村に住むPu Thuam Hang、Pi Dim Khaw Cingの夫妻とPu Pau Suan、Pi Kham Ciangの夫妻の計4名であった。
なお、宣教活動にはカレン族のThra Shwe Zanも助手として加わっており、この4名がキリスト教を受容したのは彼の宣教活動による。彼は浸礼(Baptisma)ができなかったため、実際にこの4名が浸礼をされたのは1905年5月11日、上述のErik Hjalmar Eastによる。
こうして最初の改宗者を得、その後もゆっくりとしたペースながら徐々に改宗者を増やしていく。
1908年4月にArthur Carsonは盲腸で死亡するが、約10年間の宣教の中で100名近い改宗者を得たという。
もともと精霊信仰が盛んであったチン族は、祟りを恐れキリスト教への改宗者に対し、少なからず迫害が行われていたと言われている。
彼の死後は後任としてやってきたHerbert J. Copeが中心となり宣教活動は継続されていった。
チン族に対する宣教活動においては、宣教師たちによる熱心な宣教はもちろんだが、神学校の設立や聖書学校の設立を通してチン族自身による宣教活動が増加していった点は特筆すべきだろう。
第二次世界大戦により外国人宣教師たちは国外へ逃れていったが、こうした活動によりチン族自身による宣教活動が戦中も継続して行われたことから、戦後の1949年に50周年記念式典を行った際には18,467名のバプティスト派キリスト教徒がいたという。
戦後、国外から戻ってきた外国人宣教師たちに加え、チン族自身による宣教活動も継続して行われていった結果、現在ではチン州の8割以上がキリスト教徒であるという。
人口比で考えるとチン州がミャンマーにおいて最も宣教に成功したエリアと言えるであろう。
ただし、1962年のネウィンによるクーデター以降、彼らはチン族という少数派でかつ、キリスト教徒であるという"Double Minority"として軍政から迫害を受けることとなった。
現在ではチン州出身のクリスチャンであるヘンリー・ヴァン・ティオ(Henry Van Thio)が副大統領になるなど、政府との関係は改善されているようである。
参考文献:
Dom Pub
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