ウー・ウィザラ。1889/04/24-1929/09/19(享年40歳)。
ビルマ英国植民地時代の仏教僧。Uは敬称でWisaraは法名、本名Hla Kyaw(ラチョー)。
刑務所での166日に渡るハンガーストライキにより死亡。
英領インド帝国ビルマ州ザガイン管区(Sagain Division)のKanneintにてU PyaとDaw Zalatの間に生まれる。
多くのミャンマー人同様、少年時代は僧院にて教育を受ける。
12歳の時に最初の出家をし、Wisaraの法名を賜る。
18歳でMe Nyanと結婚しPhwa Yanという娘を儲けるが娘の生まれた3か月後には結婚生活は終わりを告げた。その後Thay Hmyinと再婚しNweという娘を儲けた。
休暇の間にMonywaにあるTint Taung Monasteryにて3ヶ月間の出家を行うが、この出家の終わりごろには終生の仏門への帰依を決め、両親と妻に許可をとる。
彼らの許可を得たうえで、1912年(23歳)の時にBonpyan MonasteryにてU Adeissaにより授戒された。法名は少年時代と同じWisara。
その後しばらくは仏僧として様々なSayadaw(師)の元で修行を行い、その間2年間のインド留学も経験している。
1920年代に入ると徐々にビルマの初期独立運動に身を投じていく。
この当時はまだビルマ人に独立という概念は希薄であった。
インド留学からPakokkuに戻ると、地元の仏僧教会の主要メンバーになり、1923年には既に独立運動の中心となっていたU Ottamaと出会う。
1926年に民衆扇動罪により1年9か月の判決をうけ、Insein Prisonに投獄される。
植民地当局は袈裟ではなく囚人服を着用するように要求した。彼はそれを拒否したが、袈裟を無理やり脱がされたことから、袈裟の着用が許されるまでハンガーストライキを決行。
看守は拷問を加えたが、その後も40日間のハンガーストライキを行い、結果的に袈裟の着用が許された。
その後1928年にInsein Prisonから西ベンガル州のMidnaporeにある刑務所に移され、1929年1月8日にラングーンの刑務所に戻り、1929年2月29日に釈放された。
釈放後、ガンジー(Mohandas Gandhi)によりインドに招かれたが、インドへ向かう途中で「反植民地スピーチ」により再度逮捕されInsein Prisonに投獄された。
前回同様袈裟ではなく囚人服の着用が要求されたが、今回もそれを拒否した。袈裟を強制的に脱がされたことから1929年4月6日から再度ハンガーストライキを決行。しかし前回と違い看守側も折れず、ハンガーストライキは長期に亘ることになる。
1929年6月18日、81日目の断食を迎え既に自力では立つことができなくなっていた。裁判官から6年の判決を受けるも、上記の理由により裁判官自らが刑務所の中に入り判決を言い渡したという。
同年8月17日にはWanthanu紙の記者と3名の僧(U Kaytu/U Soe Thein /U Lar Ba)が面会を許されたが、その時には骨の上に薄い皮だけが残ったU Wisaraがいた、と記者は語っている。
またその際に、自身が着用していた眼鏡を面会に来た3名の僧に託している。
結局166日間に及ぶハンガーストライキの結果、1929年9月19日の朝8時20分に死亡が確認された。
看守は翌日の朝3時にチンミンダイにある僧院に死体を埋葬。
そして彼は、反英植民地運動における最初の殉教者となり、その犠牲により今まで政治に興味を持っていなかった多数のビルマ人たちに「独立」の意識を芽生えさせ、後の独立運動の礎となった。
1930年2月8日16時半、Shwedagon Pagodaの近くにあるKandawmin Gardenに改めて埋葬された。
ヤンゴン市内の中央にあるU Wisara Road(旧名Voyle Road)は彼の名前にちなんでつけられた。
またU Wisara RoadとAlhone Roadが交差するラウンドアバウト中央には彼の像がある。
この像の除幕式は1943年10月2日に催され、アウンサン将軍(Bogyoke Aung San)も立ち会ったという。
ビルマ英国植民地時代の仏教僧。Uは敬称でWisaraは法名、本名Hla Kyaw(ラチョー)。
刑務所での166日に渡るハンガーストライキにより死亡。
生い立ち
英領インド帝国ビルマ州ザガイン管区(Sagain Division)のKanneintにてU PyaとDaw Zalatの間に生まれる。
多くのミャンマー人同様、少年時代は僧院にて教育を受ける。
12歳の時に最初の出家をし、Wisaraの法名を賜る。
18歳でMe Nyanと結婚しPhwa Yanという娘を儲けるが娘の生まれた3か月後には結婚生活は終わりを告げた。その後Thay Hmyinと再婚しNweという娘を儲けた。
仏門への帰依
休暇の間にMonywaにあるTint Taung Monasteryにて3ヶ月間の出家を行うが、この出家の終わりごろには終生の仏門への帰依を決め、両親と妻に許可をとる。
彼らの許可を得たうえで、1912年(23歳)の時にBonpyan MonasteryにてU Adeissaにより授戒された。法名は少年時代と同じWisara。
その後しばらくは仏僧として様々なSayadaw(師)の元で修行を行い、その間2年間のインド留学も経験している。
独立運動への傾倒
1920年代に入ると徐々にビルマの初期独立運動に身を投じていく。
この当時はまだビルマ人に独立という概念は希薄であった。
インド留学からPakokkuに戻ると、地元の仏僧教会の主要メンバーになり、1923年には既に独立運動の中心となっていたU Ottamaと出会う。
最初の投獄
1926年に民衆扇動罪により1年9か月の判決をうけ、Insein Prisonに投獄される。
植民地当局は袈裟ではなく囚人服を着用するように要求した。彼はそれを拒否したが、袈裟を無理やり脱がされたことから、袈裟の着用が許されるまでハンガーストライキを決行。
看守は拷問を加えたが、その後も40日間のハンガーストライキを行い、結果的に袈裟の着用が許された。
その後1928年にInsein Prisonから西ベンガル州のMidnaporeにある刑務所に移され、1929年1月8日にラングーンの刑務所に戻り、1929年2月29日に釈放された。
二度目の投獄
釈放後、ガンジー(Mohandas Gandhi)によりインドに招かれたが、インドへ向かう途中で「反植民地スピーチ」により再度逮捕されInsein Prisonに投獄された。
前回同様袈裟ではなく囚人服の着用が要求されたが、今回もそれを拒否した。袈裟を強制的に脱がされたことから1929年4月6日から再度ハンガーストライキを決行。しかし前回と違い看守側も折れず、ハンガーストライキは長期に亘ることになる。
1929年6月18日、81日目の断食を迎え既に自力では立つことができなくなっていた。裁判官から6年の判決を受けるも、上記の理由により裁判官自らが刑務所の中に入り判決を言い渡したという。
同年8月17日にはWanthanu紙の記者と3名の僧(U Kaytu/U Soe Thein /U Lar Ba)が面会を許されたが、その時には骨の上に薄い皮だけが残ったU Wisaraがいた、と記者は語っている。
またその際に、自身が着用していた眼鏡を面会に来た3名の僧に託している。
死去とその後
結局166日間に及ぶハンガーストライキの結果、1929年9月19日の朝8時20分に死亡が確認された。
看守は翌日の朝3時にチンミンダイにある僧院に死体を埋葬。
そして彼は、反英植民地運動における最初の殉教者となり、その犠牲により今まで政治に興味を持っていなかった多数のビルマ人たちに「独立」の意識を芽生えさせ、後の独立運動の礎となった。
1930年2月8日16時半、Shwedagon Pagodaの近くにあるKandawmin Gardenに改めて埋葬された。
ヤンゴン市内の中央にあるU Wisara Road(旧名Voyle Road)は彼の名前にちなんでつけられた。
またU Wisara RoadとAlhone Roadが交差するラウンドアバウト中央には彼の像がある。
この像の除幕式は1943年10月2日に催され、アウンサン将軍(Bogyoke Aung San)も立ち会ったという。
2017/07撮影
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