*2024/10/19 小宝塔の写真を追加しました。
新潟市秋葉区(旧新津市)の秋葉山公園には、平和記念と当地区観光の象徴として建立された仏舎利塔(平和塔)がある。
1966年(昭和41年)に完成したこの平和塔はインドの初代大統領であるラージェーンドラ・プラサード(Rajendra Prasad)並びにジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)首相より新潟県民に贈られた仏舎利が奉安されている。
秋葉山平和塔の建立には10年以上の歳月が費やされた。
新潟県史によれば1954年(昭和29年)3月に日本山妙法寺より新津市秋葉山に仏舎利塔を建立したい旨、新津市へと申し入れがあった。そして同年5月には奉安する仏舎利がインド大菩薩協会書記長のデバプリヤ・ヴァリシンハ(Devapriya Valisinha)一行により新津市に到着した。
同年7月、新潟県知事であった岡田正平を会長とする「秋葉山仏舎利塔建立奉賛会」が組織され、新潟県全県民を巻き込んでの仏舎利塔建立運動が始まった。当初の予定では同年秋までに小塔を、そして翌1955年秋ごろまでに基部直径100尺、高さ108尺の大塔を完成させるというもので、塔の設計は田辺泰に依頼され、その総予算は5,000万円とし全額を県民からの浄財によることとした。
小塔自体は予定通り同年9月15日に鍬入式を実施、10月31日に仏舎利の授与並びに奉安の式典が開催された。この式典で駐日インド大使代理が奉賛会会長の岡田知事に対し仏舎利を授与し、完成した小宝塔へと奉安された。導師は日本山妙法寺の山主である藤井日達上人が務めた。
この式典にはフォンセカ(Susantha de Fonseka)駐日セイロン(現スリランカ)公使やセイロン仏教会長老、木村篤太郎防衛庁長官なども臨席したという。
なお、この奉安された仏舎利は釈迦の出身地と言われるカピラ城の発掘により発見された正真正銘の仏舎利であると伝えられており、所謂「ネルーの10粒」の1つである。
しかしこれ以降、建立計画は停滞する。
明確な記録はないものの、恐らくは募金目標であった5,000万円という金額に遠く届かなかったことが計画中断の理由であると想像される。広報にいつでも1955年12月(第27号)の「大塔建設に本腰」の記事を最後に仏舎利塔に関する話題は上らなくなっていった。
そして10年間の空白期間を経て、1965年(昭和40年)1月に、新津観光協会(会長:桂誉達新津市長)が主体となり「新津秋葉山平和塔建立専門委員会」が発足し、平和塔(計画再開にあたり仏舎利塔から平和塔へと名称が変更されている)建立計画が再開されることとなる。
同年9月8日に平和塔建立起工式、そして今回は順調に計画が進み翌1966年(昭和41年)6月10日に大塔の建設が完了した。設計・施工は戸田建設株式会社。
そして1967年(昭和42年)5月5日、建立計画の始まりから13年の歳月を経て、遂に落慶法要が開催された。落慶法要には駐日インド大使、亘新潟県知事、その他国会議員多数が参列、また一般参列者は3,000名を数えたという。導師は新津市仏教会会長の西塔政舜師。
新津市内では各商店街が幔幕を張り巡らし「祝平和塔落慶」と書かれた提灯を吊り下げるなど、新津市全体でこの慶事を祝う雰囲気があったという。
完成した平和塔は基底直径19.6m、高さ21.48m、総工費2,000万円(建立費1,700万円 付帯工事費300万円)で当初の計画からは一回り小さいものとなった。
この平和塔には仏舎利が奉安されるとともに、平和国家建設の礎となった戦没者各位の英霊、希望による故人の霊、また無縁の霊をも奉祀している。
内部には釈尊座像と観音像が安置されており、中央にある釈尊座像は津川町(現阿賀町)出身の吉田芳雲による作品で、1965年10月から翌1966年4月までの6か月をかけて制作されたもの。吉田自身も「六十年余の彫刻人生の中で、会心作というか、思い出に残っている作品」の1つとしてこの釈尊座像を挙げている。
1985年(昭和60年)4月、1994年(平成6年)3月、2004年(平成16年)3月に修復工事が行われ、現在は毎年4月に秋葉区仏教会により花まつりと戦没者慰霊法要が行われている。
参考文献:
吉田芳雲:我が人生 彫刻一筋六十年の歩み(阿賀路31号)
新津市史略年表 新津市のあゆみ
新津市史 資料編第5巻 近現代2
新潟県史 通史編9/資料編21
六大新報 第2855号
新潟日報(1967/05/07)
広報にいつ(第11号/第13号/第15号/第27号/第140号)
|
塔付近にある日本山妙法寺道場 |
|
小宝塔の一部 |
新津秋葉山平和塔
Address : 新潟県新潟市秋葉区秋葉 秋葉公園内
2021/03・2024/07撮影
スポンサードリンク
0 件のコメント:
コメントを投稿