スポンサードリンク
Address : 鳥取県鳥取市円護寺
鳥取市にはヤンゴンにあるシュエダゴンパゴダを模した高さ5.5mのパゴダが存在する。
ビルマ方面戦没者慰霊塔、通称鳥取パゴダと呼ばれる慰霊塔は1978年に建立された。鳥取県と兵庫県出身者を中心に編成された歩兵第121連隊と、同隊が所属した第54師団の英霊2,900余名を祀るこのパゴダは、鳥取県ビルマ会と兵庫県明妙会により建立されたものだ。
内部には英霊の遺灰とビルマの土、そして奉賛者名簿が納められているという。
なお、現在の慰霊塔は2代目のもので、初代は1956年(昭和31年)に建立された。
スポンサードリンク
陸軍歩兵第121連隊は1943年(昭和18年)3月に鳥取及び兵庫出身者により編成された。
4月5日に鳥取市を出発し門司港から上海、サイゴン(現ホーチミン)、プノンペン、ペナンを経て9月3日にラングーンへと上陸、その後アラカン地方のチェドバ島(Cheduba Island/မာန်အောင်ကျွန်း)防衛任務に服した。
以降、チェドバ島やラムリー島(Ramree Island/ရမ်းဗြဲကျွန်း)、タウンガップ(Taungup/တောင်ကုတ်မြို့)の防衛作戦に参加し、インパール作戦失敗後、反攻に出るイギリス軍と熾烈な戦闘を続けた。
1945年(昭和20年)1月、マタドール作戦によりラムリー島北端のチャウピュー(Kyaukphyu/ကျောက်ဖြူ)にイギリス軍が上陸。121連隊の中でも第2大隊が防衛作戦(所謂ラムリー島の戦い)に参加し、そのうち約半数ほどがこの地で戦死したという。
2月18日にはラムリー島撤退命令が下り第2大隊はタウンガップの本隊と合流、以降シッタン作戦(邁作戦)に参加し多くの犠牲を出しながら敵陣を突破しモールメン(現モーラミャイン)を目指すこととなる。
最終的にモールメンにたどり着くことなく終戦を迎え、連合軍の捕虜となり2年間にわたる抑留生活を送った。なお、この際121連隊のうち兵庫県出身者の部隊はMaymyo(現Pyin Oo Lwin)の収容所に抑留されており、これが後に組織された戦友会である兵庫明妙会(めいみょうかい)の由来となった。
同隊は2年間の抑留生活を経て、1947年(昭和22年)7月、宇品港にて復員を果たした。編成時2,905名のうち、生還したのは1,156名であったという。
戦後の1956年(昭和31年)12月、同隊戦没者の慰霊を目的に現在慰霊塔が建つ地にビルマ方面戦没者慰霊塔(初代)が建立された。しかしながら長年の風雪により大きく痛んでいったことから、復員30周年、英霊33周忌を記念して1978年8月15日に、現在まで残るこのパゴダの形をした慰霊塔が再建された。
工費は1,700万円ほどで、生存者700余名や遺族らからの寄付により賄われた。揮毫は鳥取市出身の陸軍大将、西尾壽造による。
なお、鳥取県ビルマ会はこのパゴダの他、激戦地であったラムリー島のチャウピューにもパゴダを建立している。1988年に発願し、約1,700万円の資金をもとに1990年2月27日、入魂式と慰霊祭が執り行われたという。
またその縁からチャウピューのパゴダにほど近い小学校にも継続的に支援活動を行い、校舎建設資金の支援も行ったという。
・Japan-Myanmar Relationship Pagoda
現在鳥取パゴダは戦没者の子供たちで作る「鳥取ビルマ遺児会」が管理し、毎年8月には慰霊祭を執り行っている。
2020/12撮影
参考文献:
0 件のコメント:
コメントを投稿