エインドーヤーパゴダと言えばマンダレーのものが一般的には有名だが、ヤンゴンにも同名のパゴダが存在する。どちらのパゴダもコンバウン朝(Konbaung Dynasty)9代目の王、パガン王(King Pagan:ပုဂံမင်)により建立されたもので、ヤンゴンのエインドーヤーパゴダは1847年の創建。
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パガン王はコンバウン朝9代目の王でその在位期間は1846年から1853年と、第二次英緬戦争の際の国王である。先代のターヤワディ王(King Tharrawaddy:သာယာဝတီမင်)の息子として生まれ、彼の即位と共に王太子となる。
ターヤワディ王の治世の間、彼は第一次英緬戦争(the First Anglo-Burmese War : 1824-26)の結果結ばれたヤンダボ条約(Treaty of Yandabo)を拒絶し、英緬関係は悪化の一途を辿っていく。また1840年には当時コンバウン朝の首都であったアヴァ(Ava:အင်းဝ)のイギリス駐在官が撤退し、翌1841年10月にはターヤワディ王が軍を引き連れヤンゴンに一時的に滞在するなど、イギリス側にはコンバウン朝がテナセリム(Tenasserim)奪還のための軍事行動を起こすのではないかと言った噂が絶えなかったという。なお、この時は実際に両国間での衝突は発生せず、ターヤワディ王もしばらくのヤンゴン滞在の後、アヴァへと帰還している。
この際、当時まだ王太子であったパガン王もヤンゴンに滞在しており、その滞在していた場所にエインドーヤーパゴダが建立されることとなる。
1846年にターヤワディ王が死亡するとパガン王が9代目の王として即位。
即位したパガン王はミャンマーの歴史上の国王たちがしてきたように仏教の護持・発展のために寄進を行っていく。その一環として建立されたのがこのエインドーヤーパゴダであり、前述のとおりパガン王が王太子時代に居を構えていた場所がその建立の地として選ばれることとなる。またヤンゴンと同様にマンダレーにも同名のエインドーヤーパゴダ(正式名称:Maha Lawka Yanthi Eindawyar Zedi)が建立された。
こうして長年忘れ去られていくこととなるが、1931年に地元の人々により5体の仏像が奉納されたり、鐘が寄贈されたりと20世紀も半ばに入りようやく少しづつ管理されることとなっていく。
独立後にはこのパゴダの管理組合も組織され、少しずつではあるが修復が進められていった。1990年代には新たに現在まで残るティ(Hti)が奉納され、創建以来初めての大規模な改修が行われるなど、ビルマ王朝時代の歴史の一部分を伝える存在として黄金の輝きを放ち続けている。
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中央公論新社
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